「特攻」誕生:大西瀧治郎中将、運命のマバラカット基地へ

太平洋戦争80年目の真実:特攻という悲劇の始まり

2024年は、太平洋戦争末期の1944年10月25日に開始された「特攻」からちょうど80年という節目の年です。特攻とは、敵艦への体当たり攻撃を目的とした、世界でも類を見ない日本軍独自の戦法でした。多くの若者がこの過酷な作戦に投入され、帰らぬ人となりました。

本記事では、筆者の30年にわたる取材記録をもとに、日本海軍における特攻の誕生秘話と、その中で葛藤した当事者たちの姿を改めて振り返ります。今回は、特攻作戦の発案者の一人として知られる大西瀧治郎中将が、フィリピン・マバラカット基地へ向かう道中の様子に焦点を当てます。

1944年10月19日:大西中将、マバラカット基地へ向かう

1944年10月19日、フィリピンでは、日本海軍の航空戦力の主力である第一航空艦隊(一航艦)司令部が置かれていました。司令長官の大西瀧治郎中将は、副官の門司親徳主計大尉とともに、マニラから北へ約80キロ離れたマバラカット基地へ向かうことになりました。

当時、フィリピンでは米軍の上陸が迫っており、日本軍は「捷一号作戦」の発動を決定。大西中将は、マバラカット基地で指揮下の航空隊司令や飛行長たちに作戦方針を直接伝える予定でした。

大西瀧治郎中将と副官・門司親徳主計大尉大西瀧治郎中将と副官・門司親徳主計大尉

しかし、この日のマバラカット基地は、度重なる米軍艦載機の攻撃を受けており、大西中将が待つ司令部への到着が大幅に遅れていました。

午後3時過ぎ、大西中将はしびれを切らし、自らマバラカット基地へ向かう決断をします。

危険な道のり:ゲリラ出没の恐れ、緊迫の車中

当時のフィリピンは治安が悪く、ゲリラによる襲撃事件も頻発していました。そのため、大西中将が乗車する車は、屋根に木の葉を camouflageとして施し、敵機に見つかりにくいように工夫されていました。

二〇一空司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐二〇一空司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐

車内では、大西中将と門司大尉が後部座席に並んで座り、運転席には司令部の運転手が緊張した面持ちでハンドルを握っていました。

大西中将は、車中で何を考えていたのでしょうか? 彼の脳裏には、マバラカット基地で待つ若い搭乗員たちの顔が浮かんでいたのかもしれません。そして、彼らにこれから伝えなければならない「ある決意」が、重くのしかかっていたことでしょう。

次回、大西中将がマバラカット基地で語った内容、そして「特攻」がどのようにして誕生したのか、その詳細に迫ります。