軍艦島:モノクロ写真で蘇る、炭鉱で栄えた島の活気とそこで暮らした人々の記憶

長崎県にある軍艦島、別名「端島」。その名は、島影が軍艦「土佐」に似ていることから付けられました。1955年当時、三菱の炭鉱島として栄華を極めた時代がありました。今回は、軍艦島が誇った活気あふれる日々を、貴重なカラー写真とともに振り返ってみましょう。

鉄筋コンクリートの高層住宅が立ち並ぶ、近未来的な景観

当時の三菱は、端島を買収後、埋め立てによって島の面積を3倍に拡大。最先端技術を駆使した鉄筋コンクリートの高層住宅を建設し、家族ぐるみの移住を奨励しました。

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最盛期には、わずか0.063km²という限られた面積に、5000人以上が暮らす超過密都市が出現しました。海底炭鉱から採掘される石炭によって経済は潤い、小さな島から立ち上る煙は、軍艦島という別名の由来となりました。

緑が少なく無機質な「緑なき島」

軍艦島は、緑が少なく、コンクリートに囲まれた無機質な景観から、「緑なき島」と呼ばれることもありました。1974年の閉山後、無人島となった軍艦島ですが、世界遺産登録を機に再び注目を集めています。

閉山から半世紀以上が経過し、建物の老朽化が進む一方、かつての活気あふれる島の姿は、人々の記憶の中に色褪せることなく残っています。

モノクロ写真から蘇る、活気に満ちた島の記憶

軍艦島の歴史を語る上で、モノクロ写真は貴重な資料となっています。しかし、当時の人々が実際に見ていた景色は、まぎれもなくカラーだったはずです。

そこで、「カラーでよみがえる軍艦島」では、元島民の方々の協力を得て、当時のモノクロ写真をカラー化。色鮮やかに蘇った写真の数々は、見る者を軍艦島の日常へと誘ってくれます。

炭鉱施設、生活空間、高層建築群…カラー写真で現代に蘇る

石炭の発見から、本格的な採掘が始まり、日本有数の炭鉱として発展していくまでの歴史。炭鉱関係者がほとんどを占め、日本一の人口密度を誇った島での生活。限られた土地、潮風や高波といった厳しい自然環境に対応するために建てられた高層建築群。

カラー写真を通して、当時の軍艦島で暮らした人々の息吹を感じることができます。

まとめ

軍艦島は、日本の高度経済成長を支えた炭鉱の島として、栄華と衰退の歴史を刻んできました。カラー写真で蘇った当時の島の姿は、私たちに多くのことを語りかけてくれます。