太平洋戦争の傷跡、今も深く
フィリピン・ミンダナオ島。そこは、太平洋戦争中、日本軍の占領によって110万人もの市民が犠牲になった場所です。反日感情が根強く残る中、戦後79年経った2024年9月、日本人2世の羽渕セルヒオさん(85)のもとに、長年の悲願だった日本国籍回復の通知が届きました。しかし、喜びも束の間、「手遅れだよ」とセルヒオさんは深い嘆きを漏らします。
セルヒオさんの父、清五郎さんは戦前にミンダナオ島へ渡り、ココナツや麻などの栽培と商売で成功を収めていました。当時、フィリピンでは父系の血統が優先され、清五郎さんの子どもたちは日本人として育てられていました。しかし、戦争によって運命は一変します。
日本人であることへの誇りと苦悩
戦時中、フィリピン兵に捕らえられた清五郎さんは殺害され、所有地も奪われてしまいます。残されたセルヒオさん一家は、市長から虐殺の危険性を警告され、山奥へ逃亡。10年にも及ぶ過酷な生活を強いられました。
支援団体代表と話す羽渕ヒチさん(右)=2024年9月、フィリピン・ミンダナオ島南部ホセアバドサントス(共同)
山では、耕作者に怒られながらも、イモやバナナを物乞いして命をつないだセルヒオさん。「父が生きていれば…」。学校にも行けず、貧困に苦しむ日々の中で、セルヒオさんは「自分が日本人であることを知ってほしい」と、訪日を夢見てきました。
12人兄弟、国籍回復叶わぬまま…
清五郎さんの子どもは12人。そのうちの一人、ヒチさん(82)も2023年、日本の家裁で戸籍を作る「就籍」が認められました。12人は「日本の親族が探してくれるはず」という淡い期待を抱きながら、「子どもたちを日本へ連れて行く」という夢を語り合っていました。しかし、その願いも虚しく、10人は国籍回復を果たせないまま、この世を去りました。
支援団体から日本国籍回復の通知を受ける羽渕セルヒオさん(右)=2024年9月、フィリピン・ミンダナオ島ジェネラルサントス(共同)
日本での就労が可能になるのは、存命中に国籍を回復したセルヒオさんとヒチさんの直系子孫のみ。ヒチさんは「亡くなった兄弟たちも日本人として認めてほしい。彼らの子供たちは仕事がなく、日本で働きたがっている」と訴えます。
無電化の集落に灯る希望の光
ミンダナオ島南部のホセアバドサントスのマブハイ集落には、清五郎さんの子孫547人が暮らしています。しかし、農業以外に収入源はなく、電気も通っていない貧しい生活を送っています。
地図
2024年9月、支援団体や日比両国のボランティアによって、約160個の太陽光発電の電灯が、無電化世帯に配布されました。子孫たちは、明かりの下で夕食を囲み、子どもたちは日没後も勉強ができる喜びをかみ締めています。
支援団体から受け取った電灯を掲げる住民ら=2024年9月、フィリピン・ミンダナオ島南部ホセアバドサントス(共同)
戦争の傷跡は深く、今もなお、多くの人々の心に暗い影を落としています。しかし、セルヒオさんやヒチさんのように、自らのルーツを取り戻そうとする人々の姿は、未来へ向かう希望の光でもあります。