運転技術に自信を持つドライバーでさえ、「もうだめだ」と幾度も死を覚悟するという声が聞かれる道、それが三重県と奈良県を結ぶ「名阪国道」です。この道路は、前編で触れたΩカーブや急激な天候変化など、その危険性がしばしば指摘されます。しかし、これほどの交通量を誇りながらも、なぜ名阪国道は最初から高速道路として整備されなかったのでしょうか。もし当初から高速道路としての十分な基準と広さで建設されていれば、多くの事故や渋滞を防げたのではないかという疑問が浮かびます。
名阪国道が「中途半端な自動車道」となった歴史的背景
名阪国道が高速道路としてではなく、現在の姿になった経緯は極めて複雑で、まさに「めぐり合わせ」としか言いようがありません。その歴史は、名古屋圏と関西を結ぶ大動脈である名神高速道路のルート選定に端を発します。名神高速道路は、当初検討された四日市・奈良経由ではなく、岐阜県・関ケ原を経由するルートで1965年に開通しました。
しかし、この決定は別の問題を引き起こしました。1959年には四日市市で第1コンビナートが稼働を開始し、一帯は急速に工業地帯化。これに伴い、大阪方面へのトラックやトレーラーの交通量が激増することは火を見るより明らかでした。このような状況を予見し、当時の日本道路公団(現在のNEXCOの前身)は、名神高速の建設と並行して、大阪〜四日市間の有料道路「大四道路」の調査を1961年に開始していました。
ところが、この計画に対し、奈良県が「有料化では利用しにくい。奈良県内は無料化を」と異論を唱え、有料・無料をめぐる議論が紛糾。計画はなかなか進みませんでした。それでも、四日市〜大阪間の高規格道路の重要性には変わりありません。当時の建設大臣・河野一郎は、この幹線道路の早期完成を強く望み、「1000日で完成させよ」という異例の指示を出します。この号令の下、路肩の広さや追い越し車線など、高速道路に求められる基準の一部を犠牲にしてでも、名阪国道の早期開通(1965年)が最優先されたのです。
混雑する名阪国道。なぜこの高規格道路が高速道路として建設されなかったのか、その複雑な背景を示す景観。
その結果、名阪国道は無料化されることとなり、また規格の不足も相まって、「自動車専用道」(当時は「準高速道路」扱い)という位置づけになりました。これが、高速道路でありながら高速道路ではない、名阪国道の「中途半端」な特徴を生み出すことになります。
異なる管理体制と財源問題が引き起こす格差
名阪国道と一般的な高速道路との違いは、所有・管理体制にも現れています。一般的な高速道路は、かつての日本道路公団から現在のNEXCOが管轄・管理しているのに対し、名阪国道はかつての建設省(現在の国土交通省)が管轄し、奈良県と三重県が管理するという少し異なる体制が敷かれています。
この管理体制の違いは、特に「補修・改良の財源」に大きな影響を及ぼしています。名神高速道路などの高速道路は、時代に合わせて改良が加えられる「道路構造法」に基づき、国が定める道路財源によって計画的に改良が進められます。しかし、名阪国道の場合、その財源には国土交通省だけでなく、奈良県や三重県の地方財源も絡んでくるため、予算の確保が難しく、なかなか改良が進まないという問題に直面しています。
このような財源の制約が、名阪国道の道路構造や安全対策の改善を遅らせる要因となり、結果として、一般的な高速道路と名阪国道との間の性能や安全性の差は広がる一方です。この歴史的経緯と複雑な管理体制が、名阪国道が抱える課題の根源となっているのです。
結論
名阪国道は、その高い交通量と危険性が常に議論される一方で、「なぜ高速道路ではないのか」という根本的な疑問の裏には、戦後の日本の経済発展と社会情勢、そして複雑な政治的・行政的な判断が intertwined (絡み合っている)歴史がありました。名神高速道路のルート選定、四日市地域の工業化、有料化を巡る地方自治体との対立、そして「早期開通」の至上命令が、現在の名阪国道の「自動車専用道」としての地位を確立させました。さらに、その後の異なる管理体制と財源の制約が、この道路の改良を阻み、一般的な高速道路との性能差を拡大させています。名阪国道の未来を考える上で、これらの歴史的背景と構造的な課題を理解することは不可欠であり、今後の安全対策やインフラ整備における重要な視点となるでしょう。
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