現代ではありえない江戸の裁き…日頃から包丁を持ち歩き傷害事件を繰り返す「歯止めがきかない暴力男」が、軽い罪で出所できた「長崎奉行所の謎基準」


【画像】1825年の出島

その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。

「犯科帳」に、暴力に歯止めがきかない甚八の記録が残っている。現代であれば即、刑務所行きであろう甚八を、長崎奉行所はどう裁いたのか。

【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】

日頃から包丁を懐に入れ、乱暴狼藉を繰り返す

今石灰町〈いましっくいまち〉の住人・甚八は、享保二(1717)年に家主の西崎清次右衛門と口論となり、剃刀で傷をつけて入牢となった。この時は、被害者の清次右衛門が甚八への遺恨はまったくないと奉行所に願い出たことで出牢となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一六〇頁)。

しかしその後も町役人が意見しても甚八の行跡は直らなかった。だが年を重ねれば行跡も改善されるだろうと奉行所に訴えることはなかった。しかし行跡が直るどころか、むしろますます乱暴狼藉を働くようになり、日頃から包丁を懐に入れ、町内のみならず他の町でもたびたび乱暴におよぶなど、あちこちから届けが出されるようなありさまであった。

ことに享保一八(1733)年三月二日の夜には相借屋(同じ一つの棟に借家すること)である五郎左衛門の後家のところに行って酒を求め、後家の挨拶が悪いといって火鉢を家内に打ち散らしたので、近所の者たちが駆けつけ取り鎮めた。

その後、今度は別の相借屋である清次郎の所に行き、油屋町の者二名が別の町の住人なのにここにいるのは良くないと言いがかりをつけて火鉢の鉄輪を投げつけ、相手に怪我を負わせた。だがこの傷害事件もやはり内々に処理された。

しかし甚八はこれにも懲りず、同月二一日の夜、包丁を懐中に入れて新石灰町の金子ふくのところへ行き、ふたたび狼藉を働いた。近所の者がなだめても引かず、理不尽に相手を打擲した。



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