年棒700万円から手取り11万7千円の記者に大転身…「元プロ野球選手記者」が初めて書いた”スクープ記事”


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■30歳で現役引退、一家の大黒柱の選択肢

 「僕は引退後に中日、ロッテ、西武でコーチをやって、黄金期の西武では二軍監督、三軍監督も務めました。ロッテと楽天では編成部長もやりましたが、すべての原点は引退後の3年間の新聞記者生活だったと思っています。

 プロ野球選手を辞めてから新聞記者になる人はまずいない。球界を俯瞰して見ること、選手や首脳陣から話をいかに引き出すかなどの力は、後々のキャリアに相当生かされました」

 広野は、中日が20年ぶりに優勝した1974(昭和49)年に現役を引退。このときまだ30歳である。娘2人を養う一家の大黒柱としては、これからが働き盛りだ。

 ちなみに現役最終年の年俸は700万円。これがなくなるのだから、悠々自適に過ごすわけにはいかない。

 身の振り方を思案していた広野に、中日は2つの選択肢を提示した。1966年のドラフト指名時、「一生、うちのグループで面倒を見る」と切った手形を、中日は誠実に履行したのだ。

■解説者か中日社員か、それともアメリカか?

 中日球団社長の小山武夫いわく、「東海テレビの解説者になるか? あるいは中日新聞社の社員になるか?」と。

 だが、どちらかを選べと言われた広野は、どちらも選べずに苦悩した。

 「僕はやっぱりアメリカへの夢を捨てきれんかったんです」

 広野は慶應大時代、メジャーリーグのドジャース入り一歩手前までいった過去がある。1964年の東京オリンピックのデモンストレーションゲームで戦ったアメリカ選手たちの衝撃はいまだ脳裏に焼き付いていた。

 現役を引退したからには、アメリカの野球を勉強しにいきたかった。アイク生原の愛称で知られる生原昭宏がドジャースで球団経営を学んでいるという報道も、幾度となく耳に入っており、広野の心はおおいに刺激されていた。広野は、密かにアメリカ行きを画策していたのである。



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