幕末の下田に停泊していたロシア軍艦ディアナ号。日露和親条約締結のために派遣されたプチャーチン提督一行を乗せ、異国の地で歴史的瞬間を迎えようとしていた矢先、未曾有の災害に遭遇しました。1854年12月23日、安政東海地震とそれに伴う巨大津波が下田を襲い、ディアナ号の運命を大きく変えたのです。
混乱の渦中:津波がもたらした惨状
安政東海地震は、海底からの突き上げるような揺れから始まりました。ディアナ号の航海誌には、2~3分間にわたる激しい震動が記録されています。そして、その直後、想像を絶する津波が押し寄せたのです。
下田港の風景
下田の町は一瞬にして水の底に沈み、家屋や船が流され、人々の悲鳴が響き渡りました。津波は何度も押し寄せ、その度に被害は拡大。下田富士の中腹にまで達したという記録も残されています。当時の下田の家屋のほとんどが倒壊し、122名もの尊い命が失われました。
ディアナ号の苦闘:巨大な渦との戦い
ディアナ号もこの未曾有の災害から逃れることはできませんでした。湾内に発生した巨大な渦に巻き込まれ、錨を引きずりながら42回転もしたと伝えられています。マストは折れ、船体は損傷し、浸水も激しく、甲板上の大砲が転倒して船員が下敷きになるなど、ディアナ号は壊滅的な被害を受けました。
致命的なのは竜骨の一部がもぎ取られ、舵を失ってしまったことです。航行不能となったディアナ号は、まさに風前の灯火でした。しかし、混乱の中、乗組員たちは一致団結して浸水を汲み出し、艦を守ろうと必死に奮闘しました。その姿は、日本の役人にも感銘を与えたと記録に残されています。
人道的支援:苦難の中に見えた希望
甚大な被害を受けたディアナ号でしたが、プチャーチン提督はすぐに下田の人々への支援を決断します。副官ポシェートを筆頭に、医師や通訳を下田に派遣し、負傷者の治療にあたらせました。ロシア人医師たちの献身的な救護活動は、被災者にとって大きな希望の光となったことでしょう。
この迅速かつ人道的な対応は、幕府の役人にも高く評価されました。地震と津波という未曾有の災害の中で、日露の間に芽生えた信頼関係は、その後の日露和親条約締結に繋がる重要な一歩となったと言えるでしょう。
災害への備え:歴史から学ぶ教訓
安政東海地震とディアナ号の物語は、自然災害の恐ろしさと同時に、国際的な協力と人道支援の大切さを教えてくれます。現代社会においても、南海トラフ巨大地震など、大規模な災害への備えは不可欠です。過去の教訓を活かし、防災意識を高め、万が一の事態に備えることが重要です。