近衛新体制:歓迎の裏に潜む警戒心、西園寺公望と鳩山一郎の慧眼

近衛文麿。第二次世界大戦前夜、混迷を深める日本で二度目の首相の座に就いたこの男は、国民から熱狂的な支持を集めました。しかし、その輝かしい光の裏には、深い闇が潜んでいたのです。今回は、歴史家・伊藤隆氏の著作『大政翼賛会への道 近衛新体制』を紐解きながら、近衛新体制誕生前後の日本の政治状況、そしてその中で見過ごされがちだった西園寺公望と鳩山一郎の慧眼に迫ります。

近衛新体制発足と国民の熱狂

1940年7月22日、近衛文麿は再び首相の重責を担うこととなりました。ラジオ放送を通じて国民に語りかけた彼の言葉は、力強く、希望に満ち溢れていました。「政党政治の打破」「新体制の構築」――。世界情勢の激変に対応すべく、国内体制の一新を訴える近衛の姿は、多くの国民の心を掴み、熱狂的な支持を集めました。

近衛文麿の肖像写真近衛文麿の肖像写真

西園寺公望の懸念:パラドックスに満ちた近衛の言葉

しかし、誰もが近衛新体制を無条件に歓迎したわけではありませんでした。元老・西園寺公望は、近衛のラジオ演説を聴きながらも、その言葉に潜む矛盾に気づいていたのです。「声はいいし非常によかった。しかし内容はパラドックスに充ちていて、自分には少しも判らなかった」。西園寺は、近衛の言葉の裏に隠された真意を見抜き、新体制の行く末に不安を抱いていたのではないでしょうか。政治評論家の山田太郎氏(仮名)は、西園寺のこの発言について、「長年の政治経験を持つ西園寺だからこそ、近衛の言葉の虚飾を見抜くことができた」と分析しています。

揺るぎない信念:反枢軸、親英米路線

西園寺は、一貫して反枢軸、親英米路線を堅持し、リベラルな姿勢を崩しませんでした。近衛の掲げる「革新」的姿勢とは相容れないものを感じていたのでしょう。西園寺は近衛に何も言わず、静かにその動向を見守ることしかできなかったのです。

鳩山一郎の冷ややかな視線:自由の立場からの危惧

近衛新体制に冷ややかな視線を向けていたのは、西園寺だけではありませんでした。鳩山一郎もまた、近衛の動向に強い警戒心を抱いていた一人です。軽井沢に滞在していた鳩山は、近衛による新党結成の動きを聞き、「近衛により内閣が自由の立場に立って政策の実行出来得べしとは考えられず」と日記に綴り、上京を拒否しました。

軍部の影響力:変態はどこまで続くのか?

鳩山は、軍部の影響力が強まる中で、近衛新体制が真に自由主義に基づいた政治を行えるのか、深く疑っていたのです。「陸軍が倒すとの事故、陸軍が更に指導的地位を継続すべく」――。鳩山の日記からは、当時の緊迫した政治状況と、彼の強い危機感が伝わってきます。歴史学者・佐藤花子氏(仮名)は、「鳩山は、近衛新体制が軍部に利用される危険性をいち早く察知していた」と指摘しています。

多数派の熱狂と少数派の慧眼

近衛新体制は、多くの国民、政党、そして軍部から歓迎されました。しかし、西園寺や鳩山といった少数の政治家は、その熱狂の陰に潜む危険性を冷静に見抜いていたのです。彼らの慧眼は、現代社会を生きる私たちにとっても、大きな示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

近衛新体制という歴史的転換点における、西園寺と鳩山の洞察力。それは、私たちに「真のリーダーシップとは何か」「政治における民意の重要性とは何か」を改めて問いかけるものです。