平安時代の華麗なる五節舞と宮廷社会の闇:紫式部も巻き込まれた陰湿な事件とは?

五節舞。それは平安貴族にとって、一年で最も華やかな年中行事でした。きらびやかな衣装をまとった舞姫たちが宮中を彩る様子は、まるで絵巻物から抜け出したかのような美しさ。しかし、その華やかさの陰には、嫉妬や陰口渦巻く女房社会の闇が潜んでいたのです。今回は、紫式部も巻き込まれた五節舞にまつわる事件から、平安時代の宮廷社会の知られざる一面を紐解いていきます。

五節舞:神事から娯楽へ、そして歪みゆく宮廷社会

元々は秋の収穫を祝う神事として始まった五節舞。しかし時代が進むにつれ、次第に娯楽へと変容していきました。殿上人たちの酒宴や乱舞が恒例化し、天皇でさえもその享楽に耽るように。本来の神聖な儀式は形骸化し、宮廷社会の歪みを映し出す鏡となっていったのです。

平安時代の舞姫の想像図平安時代の舞姫の想像図

童女御覧:少女たちの「美人コンテスト」と残酷な現実

さらに、五節舞に伴って行われた「童女御覧」と呼ばれる儀式は、現代の感覚では考えられないほど残酷なものでした。10歳前後の少女たちが、扇で顔を隠したまま列席者たちの前に立たされ、扇を取られた瞬間に美醜をジャッジされるのです。平安時代、顔を人前に晒すことは恥とされていました。幼い少女たちが、天皇や貴族たちの前で容姿を批評され、あごを外して笑われる光景は、現代社会では到底許容できるものではありません。

京都大学名誉教授の山本先生は、この童女御覧について、「少女たちの人格を無視した、権力者による残酷な見世物だった」と指摘しています。

紫式部も目撃した「左京の君事件」:女房社会の陰湿な争い

一条天皇と藤原道長の時代、五節舞で起きた「左京の君事件」は、女房社会の陰湿な一面を露わにした象徴的な出来事でした。紫式部の日記にも記されているこの事件は、彰子に仕える紫式部が、ライバルである女御の女房に嫌がらせをしたという内容です。

権力闘争の影:中宮彰子とライバル女御の対立

当時、道長の娘である彰子は中宮として絶大な権力を握っていましたが、他の女御たちも権力争いに虎視眈眈と狙っていました。五節舞のような華やかな場では、そうした権力闘争が水面下で繰り広げられていたのです。

紫式部の肖像画紫式部の肖像画

歴史小説家の橋本先生は、「紫式部のような教養高い女性でさえ、宮廷社会の陰謀に巻き込まれてしまうほど、当時の女房社会は過酷なものだった」と語っています。

平安貴族の光と影:五節舞が映し出す宮廷社会の実態

五節舞は、平安貴族の優雅な文化を象徴する一方で、宮廷社会の闇を映し出すものでもありました。華やかな衣装や美しい舞の背後には、権力闘争、嫉妬、陰謀が渦巻いていたのです。紫式部も巻き込まれた「左京の君事件」は、そうした宮廷社会の光と影を如実に物語っています。

五節舞の歴史を紐解くことで、私たちは平安時代の宮廷文化の真の姿、そして人間の心の複雑さを垣間見ることができるのではないでしょうか。