【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(6)西郷と勝 家近良樹教授に聞く(上)西郷の離れわざ

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キーワードは「知足」「離れ技」「点と線」…。西郷隆盛や日本史上の転換点「江戸無血開城」について現代史と比較しながら解説する家近良樹・大阪経済大学特別招聘教授=京都市(関厚夫撮影)
キーワードは「知足」「離れ技」「点と線」…。西郷隆盛や日本史上の転換点「江戸無血開城」について現代史と比較しながら解説する家近良樹・大阪経済大学特別招聘教授=京都市(関厚夫撮影)

 「我が尽力今日に及びしもの、瓦解に到らしむ。憎むべきの極(きわみ)也」-。慶応4(後の明治元=1868)年5月15日(旧暦)、勝海舟は「幕末日記」にそう刻んだ。この日早朝、新政府軍は上野・寛永寺に立てこもる旧幕府武闘派・彰義隊に対する総攻撃を開始、夕方までに彰義隊は壊滅した。

 それまで勝は、「江戸の治安回復」を理由として水戸に謹慎中の前将軍、徳川慶喜の早期江戸帰還と徳川宗家に対する減封の最小化を新政府に働きかけてきた。が、この上野戦争における「完勝」は画期となった。江戸を名実ともに掌握した新政府が慶喜の帰還を認めるはずもなく、徳川宗家はまもなく、旧幕府時代の約6分の1にあたる70万石に減封されたうえ、駿河への転封を命じられる。

 勝と西郷隆盛との会談に端を発した江戸城の明け渡しは、上野戦争の2カ月前のことである。はたして江戸「無血」開城は日本史においてどのような意味をもつのか。また、勝や西郷の歴史的な役割や価値とは? 評伝をはじめ、西郷や慶喜に関する多くの著作がある幕末維新史研究の第一人者、家近良樹・大阪経済大学特別招聘(しょうへい)教授に話を聞いた。(編集委員 関厚夫)

会津戦争の悲劇における慶喜の責任

 --江戸無血開城を「点と線」でとらえればどうなるでしょうか。

 「開国問題に端を発した幕末維新史には転換点と呼べるものが多数あります。しかしながら、日本の長い歴史のなかで、江戸無血開城ほど明確かつ象徴的な時代の転換点はないと思います。その起点となるのは慶応3年末におきた庄内藩兵(旧幕府側)による江戸の薩摩藩邸焼き打ち事件です。それが年明けの鳥羽伏見の戦いにおける旧幕府側の敗戦と徳川慶喜への追討令に繋がり、江戸開城に至る-。そう考えています。

 では終点はどこにあるのか。上野戦争というのも一つの考え方でしょうけれども、私は明治元年9月下旬に終結した会津戦争までを含めてよいと思っています。といいますのも、慶喜が『旧幕府の本体は戦いません』という恭順姿勢を貫いたことによって、『では残る敵は会津だ』ということで新政府の矛先が東北に向けられたからです。『江戸無血開城』は開城した時点で終結するのではなく、戊辰戦争のなかで東北戦争の焦点となった会津若松城の攻城戦へと延長していったといえるでしょう。

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