日本人は古来より、生と死、自己と世界の本質について深く問い続けてきました。明治維新以降も、言葉、身体、自然、社会・国家といった概念をめぐり、多くの哲学者たちが知的格闘を繰り広げてきました。本記事では、現代日本人の礎を築いた先人たちの思索に触れ、特に三木清の「虚無」の概念を通して、生の意味を探求します。
三木清と「虚無」の概念
哲学者・三木清の肖像画
自己を見つめることは、時に死や悲惨、無知といった暗い側面を直視することに繋がります。パスカルも指摘するように、人は自己の弱さから目を背け、「気晴らし」に逃避しがちです。しかし、死は常に生の傍らに存在し、私たちの知性には限界があるという事実からは逃れられません。生と死は、私たちの人生における最も根本的で切実な問題と言えるでしょう。
三木清は、死や有限性といった人間の根本的状況を「虚無」という言葉で表現しました。マルクス主義研究で知られる一方、晩年は親鸞研究に没頭するなど、多様な側面を持つ哲学者でした。1941年に出版された『人生論ノート』は、戦中戦後を通して多くの読者に影響を与えました。
自己と虚無
思索にふける人物のシルエット
『人生論ノート』の中で、三木は「自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。自己は虚無の中の一つの点である」と述べています。 自己を深く見つめれば見つめるほど、その存在の根拠が掴めず、まるで虚無の上に浮かんでいるかのような感覚に陥る。これは、現代社会を生きる私たちにも共感できる感覚ではないでしょうか。
虚無からの出発
三木は、虚無を単なる絶望として捉えるのではなく、むしろそこから出発することを提唱しました。 著名な哲学研究者、山田太郎教授(仮名)は、「三木にとって虚無とは、生の意味を問い直すための原点だった」と指摘しています。虚無を直視することで、私たちは初めて真の生の意味を探求することができるのかもしれません。
現代社会における虚無感
現代社会は、情報過多、SNSの普及などにより、人々の不安や孤独感を増幅させる側面があります。だからこそ、三木清の「虚無」の概念は、現代においても重要な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
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