日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞受賞は記憶に新しい出来事です。1956年の結成以来、「再び被爆者をつくるな」を掲げ、核兵器廃絶を訴え続けてきた彼らの活動は、世界に平和の重要性を改めて問いかけるものとなりました。この記事では、被爆者の一人である阿部静子さんの経験を通して、日本被団協の歩みと、被爆者の抱える苦悩、そして平和への願いを探ります。
被爆者の苦難と平和への希求
被爆から11年後の1956年、日本被団協は結成されました。広島で約14万人、長崎で約7万人の命を奪った原爆。生き残った人々も、心身に深い傷を負い、肉親や財産を失い、想像を絶する苦難を強いられました。「二度と同じ苦しみを味わってほしくない」—その切実な思いが、日本被団協の活動を支えてきたのです。
阿部静子さん
広島の高齢者施設で暮らす阿部静子さん(97歳)は、日本被団協の草創期を知る数少ない被爆者の一人です。「馬鹿にされ、傷つきながらも活動してきました。世界に私たちの想いが伝わったと思うと嬉しいです」と静かに語ります。しかし、その穏やかな言葉の裏には、被爆者として歩んできた苦難の道のりが隠されています。
阿部さんの被爆体験と差別、偏見
1945年8月6日、18歳だった阿部さんは、爆心地から約1.5キロの場所で被爆しました。強烈な熱線で10メートルも吹き飛ばされ、意識を失います。顔や腕に重度の火傷を負い、右腕の皮膚は爪の先まで剥がれ落ちていました。
50歳当時の阿部さん
母と姉の献身的な介護のおかげで一命を取り留めたものの、火傷の跡は残り、日常生活にも支障をきたすように。義母からは離婚を迫られ、近所の子どもたちからは「赤鬼」と罵られるなど、心無い差別や偏見に苦しめられました。「原爆さえなければ、戦争さえなければ…」—阿部さんは、そう思う日々を送っていたといいます。
寄り添う家族と、変わらぬ平和への願い
南方に赴いていた夫の三郎さんが復員後、変わり果てた阿部さんの姿を受け止め、優しく寄り添ってくれました。その支えがあったからこそ、阿部さんは苦難を乗り越えることができたのでしょう。
「闇夜に荒波に向かって叫ぶような気持ち、藁にもすがる思いで活動してきました」と語る阿部さん。被爆者の切実な願いが、ノーベル平和賞という形で世界に認められました。しかし、核兵器廃絶への道のりはまだ長く、私たち一人ひとりが平和について考え続けることが大切です。
平和へのメッセージ
日本被団協のノーベル平和賞受賞は、核兵器の恐ろしさ、そして平和の尊さを改めて私たちに教えてくれます。阿部さんのような被爆者の体験を忘れず、未来へ語り継ぎ、平和な世界の実現に向けて努力していくことが、私たちの責務ではないでしょうか。