上皇陛下の知られざる青春時代:学習院中等科時代と寮生活の葛藤

上皇陛下、平成の天皇として国民に深く敬愛された存在ですが、その青春時代、特に学習院中等科での日々は意外と知られていません。今回は、上皇陛下の若き日、学友たちとの交流や寮生活をめぐる葛藤、そして「日本のホープ」として期待を一身に背負った当時の様子に迫ります。

小金井と戸山:皇太子の寮生活をめぐる議論

1949年3月、上皇陛下(当時は明仁皇太子)の学習院中等科卒業が間近に迫っていました。中等科が小金井から戸山に移転することが決まり、皇太子は高等科のある目白に通学することになります。この移転に伴い、皇太子の住まいについても議論が巻き起こりました。

家庭教師のバイニング夫人は、皇居内で弟の義宮(後の常陸宮正仁親王)と共に暮らすことを提案しました。しかし、侍従たちはこれに反対し、小金井の光雲寮を改装して皇太子が週3日過ごす案を提示。残りの3日は御仮寓所、1日は皇居で過ごすというものでした。

バイニング夫人は、住まいを転々とする生活は皇太子にとって良い影響を与えないと懸念していました。高等科への通学時間も長くなり、寮に残る他の生徒たちも負担を強いられることになります。皇太子自身も小金井での生活を好んでいなかったことをバイニング夫人は知っていました。

alt=学習院中等科の卒業式で卒業証書を受け取る明仁皇太子(中央)。両親の昭和天皇、香淳皇后が見守る。alt=学習院中等科の卒業式で卒業証書を受け取る明仁皇太子(中央)。両親の昭和天皇、香淳皇后が見守る。

しかし、侍従たちは寮生活の利点を強調し、最終的に小金井残留案が採用されました。バイニング夫人は納得いかないながらも、皇太子が初めて同年代の少年たちと生活を共にするという歴史的な意義を受け入れようとしました。「開闢以来はじめて日本の皇太子が自分と同年配の少年たちの中にたちまじって、若い者同士の民主主義的な雰囲気の中で生活しようとしておられるのだ」と、彼女は後に記しています。(出典:『皇太子の窓』)

日本のホープ:メディアの注目と国民の期待

卒業を控えた3月12日、朝日新聞の連載記事「日本の年輪」は10代の代表として皇太子を取り上げ、「一国の将来はこの世代がにぎる、いわば国家のホープ、そしてこのホープ中の一方のチャンピョンはまず皇太子さまであろう」と記しました。

バイニング夫人が「皇太子は日本の将来のホープ」と発信していたこともあり、メディアはこぞって皇太子を「日本のホープ」と呼ぶようになりました。国民の期待が、若き皇太子に注がれていました。

3月26日、学習院の卒業式が戸山校舎で行われました。昭和天皇、香淳皇后も出席し、明仁皇太子は中等科、姉の順宮厚子内親王は高等科を卒業。皇太子は両親に見守られながら、安倍能成院長から卒業証書を受け取りました。そして、中等科小金井校はその役目を終えました。

皇太子を取り巻く環境:伝統と変化の狭間で

皇太子の青春時代は、戦後の激動期と重なりました。伝統的な皇室のしきたりと、民主主義の新しい価値観の中で、皇太子は葛藤しながらも成長を遂げていきます。寮生活をめぐる議論も、その一端を示しています。

著名な料理研究家の佐藤恵美子氏(仮名)は、「食卓はコミュニケーションの場。皇太子殿下も、寮生活で同年代の若者と食事を共にし、様々なことを語り合ったのではないでしょうか。それは、貴重な経験となったはずです」と語っています。

この時代、皇太子はどのような思いで日々を過ごしていたのでしょうか。今後の記事では、高等科時代やご成婚、そして天皇として即位されるまでの道のりを辿りながら、上皇陛下の人物像に迫っていきます。