ノーベル平和賞受賞!日本被団協・和田征子さんに聞く、被爆体験と平和への願い

長崎で被爆した和田征子さんは、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の事務局次長として長年活動し、2024年にはノーベル平和賞を受賞しました。本記事では、和田さんの被爆体験、そして平和への願いについて深く掘り下げていきます。女優・エッセイストの内田也哉子さんとの対談形式で、当時の記憶や核兵器廃絶への思いを綴ります。

和田さんと内田也哉子さん、平和への思いを共有

和田さんのノーベル平和賞受賞を心から祝福する内田也哉子さん。実は、内田さんの母である樹木希林さんも和田さんと同じ1943年生まれ。また、内田さんの父・内田裕也さんは、音楽を通して「NO NUKES」を訴え続けていました。さらに、夫である本木雅弘さんも被爆者の役を演じるなど、内田家と被爆、そして平和への願いは深い繋がりがあります。

alt=和田征子さんと内田也哉子さんの対談の様子。真剣な表情で語り合う二人の姿が印象的。alt=和田征子さんと内田也哉子さんの対談の様子。真剣な表情で語り合う二人の姿が印象的。

この対談は、『週刊文春WOMAN』に掲載されたインタビューを基に再構成したものです。

1945年8月9日、長崎で何が起きたのか

1945年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下されました。当時、和田さんは家の前で遊んでいたといいます。母親に「お外は暑いから家に入りなさい」と声をかけられ、家に入った直後、突然の閃光と爆風に見舞われました。

窓ガラスや襖は粉々に砕け散り、畳には破片が30センチほども積もっていたそうです。家の外はオレンジ色の煙に包まれ、お向かいの家さえも見えないほどの惨状でした。

放射能汚染の恐怖、遊び場となった空き地

原爆投下後、放射能汚染の危険性など知る由もなかった子供たちは、焼け野原となった空き地で遊び回っていました。当時の状況を、和田さんは鮮明に記憶しています。

専門家(氏名非公開)によると、被爆直後の混乱の中で、放射線被曝の危険性に対する認識は低く、多くの人々が被曝の影響に気づかないまま生活していたと言います。

平和への願い、未来へのメッセージ

和田さんは、自らの被爆体験を語り継ぎ、核兵器廃絶を訴える活動を続けています。ノーベル平和賞受賞は、その活動が世界的に認められた証です。

alt=ノーベル平和賞授賞式の様子。和田さんを含む日本被団協の代表団が記念撮影を行っている。alt=ノーベル平和賞授賞式の様子。和田さんを含む日本被団協の代表団が記念撮影を行っている。

「二度とこのような悲劇を繰り返してはならない」という和田さんの強い思いは、私たち一人ひとりの心に深く刻まれるべきメッセージです。平和な世界の実現に向けて、私たちは何ができるのか、改めて考えてみませんか。

この悲惨な体験を風化させないためにも、被爆者の声を聞き、平和の尊さを学ぶことが重要です。jp24h.comでは、今後も平和に関する情報を発信していきます。