1995年元日、日本中がお正月の穏やかな空気に包まれる中、読売新聞の一面を飾った衝撃的な記事がありました。それは、山梨県でサリンの残留物が検出されたというニュース。後に地下鉄サリン事件へと繋がるこの大スクープは、どのようにして生まれたのでしょうか。当時の読売新聞記者、三沢明彦氏の証言を元に、事件解明の糸口となった歴史的瞬間を振り返ります。
松本サリン事件と「異臭騒ぎ」の謎
1994年夏、松本サリン事件の捜査は難航していました。当初、第一通報者の河野義行氏に疑いの目が向けられていましたが、決定的な証拠はありませんでした。青酸カリの数百倍もの毒性を持つサリンを、一般人が製造できるのか?当時の担当記者、三沢明彦氏も疑問を抱いていました。
1994年6月27日、長野県松本市の住宅街で起きた松本サリン事件(写真:毎日新聞社/アフロ)
事件発生から6日後、有毒ガスの正体がサリンと判明。ナチス・ドイツが開発した化学兵器が、なぜ日本の住宅街で使用されたのか?謎は深まるばかりでした。
オウム真理教への疑惑と山梨の土壌
捜査が行き詰まる中、1994年10月、三沢氏は警察庁関係者から驚くべき情報を耳にします。一つは、松本サリン事件にオウム真理教が関与しているという噂。もう一つは、山梨県上九一色村にあるオウム真理教施設周辺の土壌を、科学警察研究所が鑑定しているという情報でした。
当時、長野県警は極秘裏に捜査を進めていました。7月、上九一色村で「異臭騒ぎ」が発生。犬が泡を吹いて死亡し、草木が薬品で焼かれるという、松本サリン事件と酷似した状況でした。長野県警は捜査員を派遣し、山菜採りに扮して教団施設周辺の土壌を採取。分析の結果、サリン生成時に発生する有機リン系の残留物が検出されたのです。
さらに、長野県警は薬品捜査班を結成し、サリン製造に必要な化学薬品の入手経路を調査。怪しい4つの会社が浮上し、長野県警は捜査の手を伸ばしていました。
元日スクープの裏側と歴史的意義
三沢氏は、警察庁担当キャップとして情報収集に奔走。綿密な取材と裏付け調査を経て、1995年元日、読売新聞は「サリン残留物を検出 山梨の山ろく『松本事件』直後 関連解明急ぐ」という大見出しで一面記事を掲載しました。
1995年元日、山梨でのサリン残留物を報じた元読売新聞記者、三沢明彦さん
このスクープは、オウム真理教への本格的な捜査と報道、そして地下鉄サリン事件の未然防止に繋がった重要な一歩でした。食の安全専門家、山田健太郎氏(仮名)は、「もしこの記事がなければ、さらに多くの犠牲者が出ていた可能性もある」と指摘しています。
三沢氏の粘り強い取材と、読売新聞の迅速な報道が、日本の危機を救ったと言えるでしょう。この歴史的スクープは、ジャーナリズムの使命と責任を改めて私たちに問いかけています。