熊野市、美しい海岸線と豊かな自然で知られる三重県のこの地で、99年前、忌まわしい事件が起きました。木本トンネル建設に携わっていた朝鮮人労働者、李基允氏と裵相度氏が、日本人によって虐殺されたのです。この事件は、植民地支配の闇に葬られた悲劇として、今もなお私たちの心に重くのしかかっています。
木本トンネルに響く慟哭:事件の発端と悲劇の連鎖
1925年1月、木本町(現熊野市)で木本トンネルの工事が始まりました。200人余りの朝鮮人労働者が過酷な労働 conditions のもと、山を掘り進めていました。当時の日本社会に蔓延していた差別は、彼らにも容赦なく向けられていました。そして1926年1月2日、些細な口論から、一人の朝鮮人労働者が日本人によって刺される事件が発生。これが、悲劇の連鎖の始まりでした。翌日、この事件を問い詰めた朝鮮人労働者に対し、木本の一部の日本人が宿舎を襲撃。李基允氏が殺害されました。「朝鮮人が復讐に来る」というデマが町に広がり、恐怖と憎悪が渦巻く中、裵相度氏も無残に殺害されました。当時の朝鮮日報は、自警団、青年団、在郷軍人会などが武器を手に朝鮮人を襲撃したと報じています。
三重県熊野市の木本トンネル近隣にある追悼碑
歪んだ正義:事件のその後と歴史の隠蔽
事件は双方の暴力として処理され、朝鮮人側と日本人側にそれぞれ刑が下されました。しかし、命を落とした二人は二度と戻ることはありませんでした。この事件は長い間歴史の闇に葬られていましたが、在日歴史研究家の金靜美氏によって再び光が当てられました。1980年代、金氏は三重県近隣の和歌山地域の朝鮮人の歴史を調査する中で、木本事件の存在を知り、本格的な調査を開始。極楽寺にあった差別的な表現の墓碑、そして無縁仏へと移された事実を明らかにしました。
三重県熊野市の木本トンネル近隣にある追悼碑
真実を求めて:遺族の思い、そして未来への希望
1989年、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、裵相度)の追悼碑を建立する会」(木本会)が発足。長年の努力の末、韓国から取り寄せた石碑に二人の本名が刻まれました。1994年には木本トンネル付近に追悼碑が建立され、毎年11月に追悼集会が開かれています。裵相度氏の遺族は事件から63年後に現場を訪れ、悲劇の歴史と向き合いました。木本会は現在、李基允氏の遺族を探しています。
関東大震災の影:差別と憎悪の連鎖を断ち切るために
木本会は、この事件が関東大震災時の朝鮮人虐殺と同様に、朝鮮人差別を背景とした悲劇だと訴えています。歴史の真実を明らかにし、謝罪と反省を通じて、差別の歴史を断ち切ることが重要だと考えています。「もう一人の李基允・裵相度」が生まれない社会を築くために、私たちは過去の過ちから学び、未来への希望を繋いでいく必要があります。
木本事件:証言と記録の収集を呼びかけ
木本会は、事件当時の裁判記録や、朝鮮人側に立って抵抗した日本人に関する情報提供を呼びかけています。事件の全容解明に向け、皆様のご協力をお願いいたします。