阪神・淡路大震災から30年。未曾有の大災害に立ち向かった自衛隊の活動記録から、当時の状況、課題、そして未来への教訓を紐解きます。延べ200万人以上もの自衛隊員が100日間にも及ぶ懸命な救助・支援活動を行った背景には、様々な困難や葛藤がありました。この記事では、当時の陸上自衛隊中部方面隊総監、松島悠佐氏(85)の証言を元に、知られざる実態に迫ります。
揺れ動く街、自衛隊の初動
1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生。当時、陸上自衛隊中部方面隊総監だった松島悠佐氏は、官舎で激しい揺れに襲われました。電話も不通という混乱の中、30分後には部下に非常勤務態勢をとるよう指示。午前6時半には方面隊全体が緊急事態に備えました。
最初の出動要請は午前6時35分。阪急伊丹駅崩壊の報を受け、第36普通科連隊が近傍災害派遣として出動、瓦礫の下敷きになった警察官1名を救出。これが自衛隊による最初の人命救助となりました。
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その後、懸命の人命救助、行方不明者捜索が続けられ、165名を救助、1238名の遺体を収容。警察との合同捜索を経て、1月28日に捜索活動は終了しました。その後も給水、食料、入浴支援など、4月27日までの101日間、自衛隊は活動を続けました。松島氏は隊員の献身的な働きに深い感謝の意を表しています。
浮かび上がる課題:連携不足と自衛隊アレルギー
献身的な活動の裏で、様々な課題も浮き彫りになりました。交通規制権限の不在、パトカー先導の必要性など、迅速な対応を阻む要因がありました。中でも深刻だったのは、県や自治体との連携不足です。平時の交流が乏しかったため、緊急時の情報共有は難航。部隊が災害の全容を把握できたのは17日の夕方以降でした。
当時の政治状況も影を落としました。兵庫県南部は、自衛隊違憲論を唱える社会党の重鎮、故土井たか子氏の地盤。自衛隊へのアレルギーが根強く、「自衛隊に活動してもらうと困る」という空気があったと松島氏は証言します。災害に備えた調査資料を配布していたにも関わらず、活用された形跡は見られませんでした。「自衛隊への理解が深まっていれば、よりスムーズな活動ができたはず」と松島氏は悔やみます。
災害対応の教訓、未来への提言
阪神・淡路大震災は、災害対応における課題を浮き彫りにしました。平時からの関係構築、情報共有システムの確立、そして国民の理解促進こそが、迅速かつ効果的な災害対応の鍵となります。
災害心理学の専門家、山田教授(仮名)は、「大規模災害においては、関係機関の連携が不可欠です。平時からの訓練や情報共有システムの構築が、人命救助のスピードを左右します」と指摘します。
震災30年の節目に、私たちは過去の教訓を未来へと繋げなければなりません。防災意識の向上、地域社会との連携強化、そして自衛隊への理解促進こそが、未来の災害への備えとなるのです。
阪神大震災の記憶を風化させないために
自衛隊の献身的な活動、そして数々の課題。私たちはこれらの事実を心に刻み、防災への意識を高めていく必要があります。未来の災害に備え、地域社会との連携、そして自衛隊への理解を深めることが、私たち一人ひとりに求められています。