北九州の「希望のまち」予定地で “家族機能”の社会化を目指す


インディーズや輸入版を扱うレコードショップ、デッドストックのジーンズを仕入れる古着屋、とびっきり美味いサンドウィッチを出すカフェもあった。たまに背伸びをして夜の小倉を出歩くと、昼のにぎわいとは打って変わってどこか物騒で、道を外れて細い路地に入ると、暗闇に何か見えないものを想像しては、身構えて歩いた。

◾️「希望のまち」予定地との縁

2024年10月に北九州市小倉北区の「希望のまち(複合型社会福祉施設)予定地」で “文化一揆”というイベントが開催された。このイベントは、かつて小倉という街の一部*が炭鉱で栄えた時期があったことに着目したもので、都市という生き物が内包しながらも、失いつつあるかつての記憶を呼び起こそうとする試みだった。
*小倉北区の足立山西麓エリア

夜もふけて、あたりが濃紺から漆黒の闇へと変貌する頃、かつての炭鉱労働者に捧げるかのようなダンス+クラリネット+ドラムのメインパフォーマンスが決行され、残響とともに土埃が闇夜に舞った。

照明も落とされ、人もまばらになり始めた頃、ふとあたりを見渡すと、だだっ広い空き地がうっすらと目に映った。「……ここはかつての小倉炭鉱の入り口……暴力団の事務所があった場所で、近い将来『希望のまち』という建物が建つのだよ」と誰かが耳元で囁いた。

とある横浜生まれの女性がこの街と縁を結んだのは、抱樸(ほうぼく)という団体が存在したからだった。抱樸はその活動の原点を1988年に遡る、北九州を拠点に活動するNPO法人で、生活困窮者やホームレス状態となった人々への支援を幅広く行なっている。

そこで広報を務める北條みくるは、今年で34歳。横浜で生まれ育った都会っ子で、文化・物質的な面では不足なく育ったともいえる彼女の価値観を大きく変えたのは、高校時代に経験したアルゼンチン留学だった。アルゼンチンという国を選んだのは「地球で日本から一番遠い場所だったから」という若者らしい好奇心と、少々の逃避願望を伴ってのことだった。



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