大相撲の歴史には、数々の名力士がその名を刻んできました。強さ、技、そして人間性、それぞれの魅力でファンを魅了してきた力士たちの物語は、時代を超えて語り継がれています。今回は、そんな大相撲の歴史に名を刻むも、「忘れられた横綱」とも言われる男女ノ川の人生に迫ります。理事の座を自ら捨て、相撲界を去ったその背景には、一体何があったのでしょうか?
茨城が生んだ巨漢力士、男女ノ川
1903年、現在の茨城県つくば市に生まれた坂田供二郎、後の第34代横綱・男女ノ川。190cmを超える長身と150kgに迫る巨体から「仁王」と称され、郷里を詠んだ百人一首「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」に由来する四股名で土俵に上がりました。
1931年、初場所の番付表を見る朝潮(後の横綱男女ノ川)。
1924年の初土俵から着実に番付を上げ、小結時代に武蔵山との取組で国技館を18年ぶりの満員札止めにするほどの人気力士へと成長。巨体を活かした豪快なかんなりや小手投げを得意としましたが、下半身の弱さが弱点でもありました。
双葉山の引き立て役?「最弱横綱」と呼ばれた男
1936年に横綱へ昇進。後輩であり、大相撲史に燦然と輝く横綱・双葉山に対して「俺が強くしてやった」と豪語するも、対戦成績では全く歯が立たず、双葉山の引き立て役という印象が拭えない存在でした。
横綱在位11場所(当時は年2場所制)で87勝55敗22休という成績は、現在の1場所15日制に換算すると平均9勝6敗程度。「最弱横綱」と揶揄されることもありますが、息子の坂田和夫氏は「皆勤負け越しは、途中休場して土俵から逃げなかった証し」と父を擁護しています。
型破りな横綱、その素顔
男女ノ川は土俵の外でも型破りな行動で知られていました。高価な自動車を誰にも相談せず購入し、自ら運転して場所入り。戦時下にガソリンが不足すると自転車で国技館へ通ったという逸話も残っています。
現役横綱でありながら大学の聴講生となり、巡業を休んで講義に出席するなど、当時の力士としては異例の行動が目立ちました。「相撲道研究会」の理事長を務める相撲評論家、田山勝男氏(仮名)は、「男女ノ川は、相撲界の伝統にとらわれない自由な精神の持ち主だった」と評しています。
理事辞任の真相:面倒くさくなった?
1942年に引退後、一代年寄として相撲協会理事も務めた男女ノ川ですが、終戦直前の1945年6月、突如として年寄を廃業。不祥事や周囲からの圧力があったわけではなく、41歳という若さで自ら相撲界を去りました。
その理由は驚くほど単純。「理事会に出るのが面倒くさくなった」というのが真相でした。この型破りな行動は、彼の自由奔放な性格をよく表しています。
自由を求めた異色の横綱、男女ノ川
「最弱」のレッテルを貼られながらも、土俵に上がり続けた不屈の精神。そして、地位や名誉にこだわらず、自らの意思で相撲界を去った潔さ。男女ノ川は、まさに異色の横綱と言えるでしょう。彼の生き様は、私たちに「本当の強さとは何か?」を問いかけているのかもしれません。