三菱銀行猟銃立てこもり事件:42時間の恐怖、決断の時

1979年1月26日、大阪で発生した三菱銀行猟銃立てこもり事件。犯人の梅川昭美による凶行は、行員や警察官の命を奪い、日本犯罪史に暗い影を落としました。猟銃を発砲し、人質を取った梅川。警察は42時間にも及ぶ緊迫の攻防を強いられました。この記事では、事件発生から3日目、ついに決断を下した大阪府警の動きに焦点を当て、当時の状況を詳しく解説します。

緊迫の3日目、人質の限界

事件発生から3日目の1月28日、銀行内に閉じ込められた人質たちの体力は限界に達していました。楠本警部補や前畠巡査、支店長らの遺体が放置されたままの室内は、暖房の影響とトイレの使用を制限されたことによる異臭で満たされ、人質をさらに苦しめていました。

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一方、梅川にも疲労の色が見え始め、楠本警部補から奪った拳銃を手にうとうとする姿が目撃されるようになりました。たった一人で人質の監視と警察への対応を続けることは、想像を絶する負担だったはずです。

府警幹部の苦悩と決断

当時の大阪府警刑事部長、新田勇氏は冷静沈着な指揮官として知られ、最終決断を下す際にも一度官舎に戻り、身なりを整えてから熟慮したという逸話が伝わっています。「常に頭脳を明晰にし、決断を下さなければならない」という新田氏の信念は、府警内部で今も語り継がれています。(参考:産経新聞1989年7月1日付東京朝刊)

また、大阪府警本部長、吉田六郎氏は当初、犯人の生け捕りを目指していましたが、説得工作が失敗した場合に備え、「特殊訓練を受けた射撃のプロである精鋭部隊を投入したい」と考えていたといいます。(参考:産経新聞1999年1月24日付大阪朝刊)

警察の特殊部隊、決死の潜入

シャッターに開けられた偵察孔からは、捜査1課特殊班員が銀行内部の様子を監視し続け、CDコーナーの隙間からは警備第二課員が梅川の行動を逐一観察していました。彼らの任務は、梅川の行動パターンや癖を詳細に把握し、「その時」に備えることでした。

そして、「その時」は刻一刻と近づいていました。当初から「犯人狙撃が最も有効な対策」とされていた特別検挙班への出動命令が、ついに下されることになったのです。

最後の攻防へ

人質の安全確保と事件の早期解決を願う警察。梅川の疲労と人質の限界、そして警察の周到な準備。様々な要素が絡み合い、事件は最終局面へと向かいます。

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この緊迫した状況の中、どのような結末が待ち受けているのでしょうか。