日露戦争がはじまった直後、明治天皇が放った「驚きの一言」


司馬遼太郎の見識

少し目線を高くして、巨視的にものごとを見る必要性や、「歴史に学ぶ」必要性を感じる機会が増えたという人も多いのではないでしょうか。

「歴史探偵」として知られる半藤一利さんは、なぜ日本が無謀な戦争に突っ込んだのかについて生涯にわたって探究を続けた作家・編集者です。

半藤さんの『人間であることをやめるな』(講談社文庫)という本は、半藤さんのものの見方のエッセンス、そして、歴史のおもしろさ、有用性をおしえてくれます。

本書には、作家・司馬遼太郎の見識の鋭さを紹介する章があります。

司馬が『坂の上の雲』に記した名フレーズを、その歴史的背景をおぎないつつ解説するという趣向で、たとえば、日露戦争開戦前後の、指導者たちの様子を以下のように描いています。

『人間であることをやめるな』より引用します(〈〉の中が、司馬の文章です)。

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明治三十六年春から、帝政ロシアの南下政策はより強硬の度を加え、満洲はおろか朝鮮半島も占拠される危険が高まり、日本のもつ諸権益は風前の灯となった。そこでロシアと直接交渉に入ったのが七月二十八日、交渉は翌年二月までつづくが、ロシア側のスローモーぶりは前代未聞に近かった。

しかも、いかに努力と譲歩を重ねても、ロシア政府は満洲は日本の権益外とし、交渉は朝鮮半島のみに限定すると主張、日本の反論をいっさい受けつけようとはしなかった。交渉は最初から難航し、前途に曙光を見出せそうにもなかった。ドイツ人医学者ベルツの、三十六年九月十五日の日記を引いてみる。

「二ヵ月このかた、日本とロシアとの間は満州と韓国が原因で、風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとっくの昔に宣戦を布告せざるを得なかった筈だ。だが幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ」

第三者としてベルツ博士はじつによく観察している。元老も政府も軍部も、苦悩の限りをつくしながら、たしかに、カッカとせず妙な幻想にとらわれず、冷静そのものであったのである。

しかし、ロシア政府は、朝鮮半島の北緯三十九度以北は中立地帯とすること、満洲は日本の権益外の地であることを世界に公表せよ、つまり満洲と朝鮮半島から日本は完全に手を引け、と高飛車にして強圧的な最終要求を突きつけてきた。

日本の指導者はここに及んで、最後の決断を迫られた。六月二十三日、十月十三日、十二月十六日、翌三十七年一月十二日と、真剣にして慎重に彼我の国力を比較検討した御前会議がひらかれている。第四回の会議のとき、明治天皇はいった。

「なおもう一度、交渉してみてはどうか」

谷寿夫の『機密日露戦史』には興味深い記載がみえる。

……山県(有朋)元帥および桂(太郎)総理に決心を促さんことを要求す。しかるに桂総理大臣の決心確乎ならず、優柔不断ついに国家の大事を誤らんことを恐る。加うるに、山県元帥の意気銷沈してまた昔日の慨なし。ああ、川上(操六)大将は四年前に逝き、田村(怡与造)少将(十月)一日をもって大将の後を追う。大山(巌)参謀総長また戦意なく、……

当然であろう。昭和の戦争のように、暴虎馮河の勢いであとさきを考えず、あるいは「そもそも戦争はやってみなければわからない」、あるいは「清水の舞台から飛び降りる」といって国家の命運を賭した戦争に突入する無茶苦茶な論理は、明治の指導者のとりうるものではなかった。司馬さんのしきりに讃えるように、明治人のよさはそうしたリアリズムに徹し、合理的なごく平凡な考えを守り、たえず冷静でありつづけたところにある。

しかし、話し合いの段階はとうに通り過ぎていった。満洲全土にはロシアの戒厳令が布かれていた。二月三日にはウラジオストック在留の日本人に退去命令がでた。明治の指導者はここに及んで対ロシア開戦を決意する。それは、ロシアの引き延ばし策にも乗らず、開戦責任を押しつけられることなく、最適のタイミングを選んでの開戦であったのである。

司馬さんはわざとなのかほとんど明治天皇ぬきで小説『坂の上の雲』を書いている。が、天皇ぬきの近代史はないのである。いよいよ国交断絶ときまったとき、天皇は皇后にだけ洩らしたという。

「いよいよ開戦と決まった。私の志ではないがやむをえない」

そして、しばらくしてから、なかば独語のように呟いた。こうした天皇の言葉は大事である。

「もしこれが失敗したら、何とも申し訳が立たぬ」

さらに、このとき天皇は和歌一首を詠んでいる。

ゆくすゑはいかになるかと暁の

ねざめねざめに世をおもふかな

天皇ばかりではない、元老・閣僚はもとより陸海軍部もまた、勝利の成算はなかった。勝敗は問うところではなく、期するところは、全知全能をふりしぼって全滅を期して徹底的に戦うのみである。満洲派遣軍総司令官大山巌大将は出征にさいして、山本権兵衛海相に念を押すようにいった。

「戦さは何とか頑張ってみますが、刀を鞘におさめる時期を忘れないでいただきます」

二月八日、日露戦争はここにはじまる。

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日露戦争をめぐる緊張感が伝わってくる文章です。

さらに【つづき】「日清戦争と日露戦争のあいだに、日本に起きた「巨大すぎる変化」を知っていますか?」の記事では、日清戦争と日露戦争のあいだに起きた変化について見ています。

講談社文庫出版部



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