筑波大学といえば、近年では秋篠宮家の悠仁親王殿下のご入学が話題となりましたが、過去には世間を震撼させた未解決事件の舞台でもあります。今回は、1991年に発生した「悪魔の詩」翻訳者殺人事件について、改めて振り返り、その背景や謎に迫ります。
悪魔の詩と五十嵐助教授
サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」は、イスラム教を冒涜するものとして、イランの最高指導者ホメイニ師から死刑宣告を受けるなど、世界的な物議を醸しました。日本では、筑波大学の五十嵐一助教授が翻訳を担当し、1990年に出版されました。出版記念記者会見では、イスラム教徒からの抗議を受け、緊迫した状況となりました。五十嵐助教授は、言論の自由のためではなく、一読者かつイスラム研究者として、この小説は冒涜ではないと判断した上で翻訳を引き受けたことを表明していました。
血まみれになった殺害現場
衝撃の殺人事件と捜査の難航
1991年7月12日、五十嵐助教授は筑波大学構内で刺殺体で発見されました。首には頸動脈を切断するほどの深い傷があり、イスラム式の殺害方法を思わせるものでした。捜査は難航し、怨恨説、右翼犯行説など様々な憶測が飛び交いましたが、犯人は特定されず、2006年に時効を迎えました。
犯人像をめぐる様々な憶測
事件当時、中東問題に精通した評論家の佐藤一郎氏(仮名)は、「殺害方法は明らかにイスラム式であり、宗教的な動機が考えられる」と指摘していました。(出典:現代イスラム研究会会報、1991年8月号) 一方で、五十嵐助教授は演劇活動などを通して活発に発言しており、他のトラブルの可能性も排除できませんでした。
悠仁さまと筑波大学
五十嵐助教授の人物像
五十嵐助教授は、学生に人気の高い熱心な教育者であり、講義には300人近い学生が集まっていました。彼は「悪魔の詩」を講義のテキストに使うこともあり、自身への危険を認識していたにもかかわらず、警察の身辺警護を断っていました。出版者のパルマ氏が身の危険を感じていたのとは対照的に、五十嵐助教授は自身の研究姿勢に自信を持っていたと考えられます。
未解決事件の闇と未来への教訓
「悪魔の詩」翻訳者殺人事件は、言論の自由、宗教対立、そして未解決事件の闇を私たちに突きつけます。事件の真相は未だ解明されていませんが、この事件を風化させず、未来への教訓として語り継いでいくことが重要です。
筑波大学は、悠仁さまのご入学という明るい話題とともに、この未解決事件という暗い過去も抱えています。この対比は、私たちに歴史の重みと未来への責任を改めて考えさせるのではないでしょうか。