【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(2)君よ、いま一度よみがえれ 


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吉田松陰像。指さし、見つめる先は渡航の夢がかなわなかった米国、そして太平洋である=静岡県下田市(関厚夫撮影)
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 旧暦で吉田松陰の命日にあたる先月(10月)27日午前、東京・世田谷の松陰神社で例大祭が営まれた。日曜日であり、松陰神社通り商店街や境内を会場にした「幕末維新祭り」も会わせて開催されていたからだろうか。社殿で営まれた神事には例年の倍以上の関係者が参列していた。

令和元年10月27日、松陰神社にて

 でも、足が悪いにもかかわらずいつもかくしゃくとしておられた玉木正光さんの姿はない。松陰幼少時の厳師でもあった叔父、玉木文之進(1810~76)を祖とする正光さんが鬼籍に入られたのは5年ほど前のことだっただろうか。正光さんを最後に玉木家は断絶したという。

 松陰は長州藩士、杉家の次男に生まれた。数えで5歳の天保5(1834)年、長州藩で山鹿流兵学師範を務める吉田家の養子に入った。養父の吉田大助もまた、玉木文之進より3歳年上の松陰の叔父にあたる。翌6年、養父・大助が早世し、松陰は、姓は吉田のまま、通称を寅次郎(幼名は虎之助)、名は矩方(のりかた)として杉家で育てられた。のちにその杉家の敷地内に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を構成する松下村塾舎が建てられることになる。

 少し体調を崩されているのだという。松陰にとって最大の理解者だった兄、杉梅太郎をほうふつとさせる杉家のご当主も姿を見せなかった。高齢社会の波は、松陰ゆかりの人たちの家系にもまた、迫ってきている。

 神事の後の直会(なおらい)では、吉田家の女性当主、基子さんがあいさつし、乾杯の音頭を取るのが恒例となっている。そのさい、今年は吉田さんの声が少しかすれていた。また会食が始まってしばらくすると吉田さんは中座された。心をよぎった不安は直会後、払拭した。中座は参詣にきていた友人の欧州人女性と話をするためだったという。はきはきとしたその話しぶりや表情は十数年前に初めてお会いしたときと変わらないように思えた。

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