【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(3)死しても生きる-釈迦や楠公のごとく

[ad_1]

前のニュース


吉田松陰像=山口県萩市の「団子岩」(関厚夫撮影)
吉田松陰像=山口県萩市の「団子岩」(関厚夫撮影)
その他の写真を見る(1/2枚)

 山口県萩市。世界遺産に認定された「明治日本の産業革命遺産」を構成する松下村塾から徒歩で約10分。吉田松陰の前髪がおさめられた墓所が「団子岩」と呼ばれる高台にある。

 松陰の命日(旧暦で10月27日)から間もなかったこともあるだろう。今年10月末、再訪したさいには、松陰だけでなく、近くにある彼の近親者や高杉晋作をはじめとする門弟たちの墓前には色とりどりでいずれもみずみずしい草花が供えられていた。

 松陰の遺骨は、東京・世田谷の松陰神社の境内にある墓所に埋葬されている。その「世田谷松陰神社」で今年、松陰の命日に営まれた例大祭の神事への参列者が例年になく多く、盛況だったことを思い出した。

 と同時に、「小塚原回向院」(東京都荒川区南千住、「両国回向院」の元別院)にある橋本左内の墓所を訪れたときのことがよみがえってきた。

令和元年10月7日、「小塚原回向院」で

 左内の刑死は松陰の20日前-安政6(1859)年10月7日(旧暦)。新暦ながら今年のその日の昼すぎは、「また夏がぶり返してきたのか?」と思わせるほどの日差しだった。

 小塚原刑場跡の一角を占める回向院の境内には史跡が多い。18世紀後半、ここで蘭方医の杉田玄白や前野良沢らが刑死者の解剖を見分したことがきっかけで翻訳書『解体新書』を著した。境内にはこの偉業を顕彰する「観臓記念碑」があり、鼠小僧やプロレスラーのカール・ゴッチの墓、そして松陰の墓もある。松陰は文久3(1863)年に現在の「世田谷松陰神社」の境内に改葬されるまでここで眠っていた。

 そのなかで、小屋ほどの大きさの鞘堂(さやどう)におさまり、わきには重厚な顕彰碑が建てられている左内の墓所はひときわ立派である。しかし、彼の命日にもかかわらず、墓前には献花や焼香の跡はなく、小銭が供えられているだけだった。

 左内の故郷・福井市ではJR福井駅から西南西の方向に徒歩で十数分の場所にある左内公園で毎年、命日に墓前祭法要が、またそこから北へ約1キロの生家跡では毎春、生誕祭が営まれ、それぞれ約100人が列席している、と聞いた。「小塚原回向院」でも十数年前までは、命日の前後に墓前祭が行われていた。しかし、いまは「中断」しているという。

続きを読む

[ad_2]

Source link