公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。50歳の若さで大使に就任し、欧州・アフリカ大陸に知己が多い岡村善文・元経済協力開発機構(OECD)代表部大使に、40年以上に及ぶ外交官生活を振り返ってもらった。
■会議の〝顔〟いきなり交代
《2012年秋に米シカゴ赴任を終えて帰国し、外務省アフリカ部長を務めた》
東京で翌年6月、総理大臣主催でアフリカ首脳を集めた大きな会議が予定されていました。第5回アフリカ開発会議(TICAD)です。アフリカ部長は事務局長として仕切らなければならない。野田佳彦総理と相談しつつ、準備を進めていました。
ところが12月末、政権交代で安倍晋三政権が誕生。安倍総理にとっては、初の自身主催の首脳会議になりました。
TICADは約30年前の1993年、日本がアフリカ首脳を東京に招待し第1回目が開催された。アフリカの開発が議題です。
欧州は当時、「ベルリンの壁」崩壊やソ連解体直後だった。自由主義に転じた東欧諸国への経済支援に莫大な資金を要し、西欧諸国にはアフリカの面倒を見る余裕がありませんでした。そこで、日本がアフリカへの開発援助を考える会議を開くことになったのです。
■アフリカ、たっての要望
《会議は1回限りの予定だった》
ところが、アフリカ諸国は「また、開催してほしい」と言ったのです。このため、5年後の98年に第2回会合を開催。5年ごとに回を重ねてきたわけです。
TICADがアフリカ諸国に歓迎されたのは、日本がアフリカの開発に欧米諸国と違う姿勢で臨んだためです。それは「オーナーシップ」という考え方にあります。
開発を自分の手で行うことを求める、つまり日本がアフリカを支援するには、アフリカ各国が自助努力をすることが前提だということ。これは、TICAD開催を推し進めた小和田恒外務次官(当時)が打ち出したものです。
■冷たく、突き放す立場