「田中角栄」政権誕生のウラに知られざる人脈 “今太閤”の後ろ盾は名門「ハプスブルク家」と「希代の日本人フィクサー」だった


「感謝を申し上げます」

【写真】田中角栄が欧州きっての名門「ハプスブルク家」のオットー大公に宛てた礼状。歴史的に大きな価値を持つ手紙には「Kakuei Tanaka」のサインが

 英文でタイプされた文面の日付けは1972年6月15日、差出人は当時の日本の通産大臣、田中角栄。宛先はオットー・フォン・ハプスブルク大公とある。神聖ローマ皇帝の流れをくみ、オーストリア、ハンガリーなど中東欧を治めたハプスブルク家の当主だ。

「おかげ様で今月12日、キッシンジャー氏との会談が実現しました。会合は2時間以上も続き、極めて有益な意見交換ができました。感謝を申し上げます」

 キッシンジャーとは米大統領の国家安全保障問題担当補佐官で、外交を一手に握ったヘンリー・キッシンジャー。ちょうど日本を訪れ、要人と会談したばかりだった。

 その翌月、田中は自民党の総裁選でライバルを破り、見事、内閣総理大臣の座を手にした。それに大きく寄与したのがキッシンジャーとの会談、仲介した欧州きっての名門、ハプスブルク家のオットー大公だった。

福田赳夫との熾烈な戦い

 一方で田中には、金権政治のダーティーな評価がついて回った。権力をつかむため、政界に札束をばらまいたという疑惑だ。結局、50年ほど前、1974年に退陣するのだが、その後も政界に君臨した。所属する国会議員100名以上、自民党最大の派閥を率いて「田中軍団」と呼ばれた。

 その力は元田中派の竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三が総理になったことで分かる。石破茂総理もかつて田中に口説かれ、政界入りしたという。

 この異様な権力集団は、どうやって生まれたか。その原点を語るのがドナウ川の畔、オットー・ハプスブルク財団に眠るハプスブルク家の文書だった。

 この手紙が送られた1972年の初夏、政界で最大の関心は「ポスト佐藤」の行方だった。8年目を迎えた佐藤栄作総理は間もなく退陣し、その後継を巡り、田中と外務大臣の福田赳夫が熾烈(しれつ)な戦いを続けていた。

 5月9日、佐藤派田中系の国会議員数十名が、都内の料亭に集まり、次期総裁への田中擁立を決めた。これ以降、多数派工作が激化するが、田中は、ライバル福田にない決定的ハンデを負っていた。その出自である。



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