「感謝を申し上げます」
振り返れば、53年前、「今太閤」と呼ばれ、世間の熱い支持を受けて船出したのが田中角栄政権だった。が、今と大きく違うのは首相誕生の裏で地球を一周する人脈が動いていたことだ。証左となる歴史的文書を入手したジャーナスト・徳本栄一郎氏が真相を解き明かす。(「週刊新潮」2024年11月14日号掲載 特別読物「歴史的文書を独自入手 田中角栄 政権誕生の背後に『ハプスブルク家』と『日本人フィクサー』」より)
【写真】田中角栄が欧州きっての名門「ハプスブルク家」のオットー大公に宛てた礼状。歴史的に大きな価値を持つ手紙には「Kakuei Tanaka」のサインが
ハンガリーの首都ブダペストは、ドナウ川両岸に広がる美しい街並みで知られる。世界遺産に登録された教会、宮殿が聳え、「東欧のパリ」と呼ばれる。その手紙を見つけたのは、今年4月、ブダペスト市内のある建物を訪ねた時だった。
英文でタイプされた文面の日付けは1972年6月15日、差出人は当時の日本の通産大臣、田中角栄。宛先はオットー・フォン・ハプスブルク大公とある。神聖ローマ皇帝の流れをくみ、オーストリア、ハンガリーなど中東欧を治めたハプスブルク家の当主だ。
「おかげ様で今月12日、キッシンジャー氏との会談が実現しました。会合は2時間以上も続き、極めて有益な意見交換ができました。感謝を申し上げます」
キッシンジャーとは米大統領の国家安全保障問題担当補佐官で、外交を一手に握ったヘンリー・キッシンジャー。ちょうど日本を訪れ、要人と会談したばかりだった。
その翌月、田中は自民党の総裁選でライバルを破り、見事、内閣総理大臣の座を手にした。それに大きく寄与したのがキッシンジャーとの会談、仲介した欧州きっての名門、ハプスブルク家のオットー大公だった。
福田赳夫との熾烈な戦い
戦後の日本で、田中角栄は異色の存在といえる。雪深い新潟の農家に生まれ、小学校卒の学歴しかない。裸一貫で上京し、建設会社の経営を経て政界入りした。持ち前のエネルギー、官僚を操る手腕で頭角を現し、ついに総理となる。その姿に国民は、「今太閤」「庶民宰相」と熱狂した。
一方で田中には、金権政治のダーティーな評価がついて回った。権力をつかむため、政界に札束をばらまいたという疑惑だ。結局、50年ほど前、1974年に退陣するのだが、その後も政界に君臨した。所属する国会議員100名以上、自民党最大の派閥を率いて「田中軍団」と呼ばれた。
その力は元田中派の竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三が総理になったことで分かる。石破茂総理もかつて田中に口説かれ、政界入りしたという。
この異様な権力集団は、どうやって生まれたか。その原点を語るのがドナウ川の畔、オットー・ハプスブルク財団に眠るハプスブルク家の文書だった。
この手紙が送られた1972年の初夏、政界で最大の関心は「ポスト佐藤」の行方だった。8年目を迎えた佐藤栄作総理は間もなく退陣し、その後継を巡り、田中と外務大臣の福田赳夫が熾烈(しれつ)な戦いを続けていた。
5月9日、佐藤派田中系の国会議員数十名が、都内の料亭に集まり、次期総裁への田中擁立を決めた。これ以降、多数派工作が激化するが、田中は、ライバル福田にない決定的ハンデを負っていた。その出自である。