【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(9)魂は残る-たとえわが身は朽ちようとも


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吉田松陰肖像画(全部)=山口県文書館所蔵
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 井上馨や品川弥二郎、宍戸●(王へんに幾、たまき)、杉孫七郎ら長州藩出身で明治を代表する顕官の子孫の方々と偶然、臨席となり、お話しする機会を得た。吉田松陰の命日(10月27日=旧暦)に東京・世田谷の松陰神社で営まれた例大祭神事後の直会(なおらい)でのこと。話題は多岐にわたったが、やはり安政の大獄-その犠牲となった松陰や橋本左内に移っていった。

格別の罪なし

 橋本左内への判決は当初、「格別の罪もないが、罪なしでもない」ため、「流罪」ということで老中以下、一致していた。その旨、大老の井伊直弼(なおすけ)に伺書(うかがいしょ)を提出すると、後日、戻ってきた伺書には「死刑」の付け札が。みな心中仰天したが、当時の井伊は飛ぶ鳥を落とす勢いだったため、反論はなかった-。

 左内を側近に登用した越前福井藩16代藩主、松平春嶽(慶永)が維新後に明らかにした「幕吏から詳しく聞いた切歯に堪えない話」である。これを裏付けるかのように井伊家には「遠嶋(島) 橋本左内」の上に「伺より一等重き方」と書かれた付け札が張られた文書が残っている。「遠島より一等重き方」とは「死刑」のことだ。

 だが、彦根藩研究の第一人者の母利美和・京都女子大教授の著書や講演によると、この付け札の筆跡は直弼のものではないだけではなく、彼が独断で「一等重い罪」を科したという説は、「当時の幕府評議のあり方から考えて不可能であり、処分は当時の幕閣の合意のもとで決定されたと考えるべきである」という。

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