上野千鶴子氏が戦後文学の「男性の妄想」を一刀両断 「いい加減にしろ」と痛烈批判

戦後文学が描き出す日本人の精神性とは何か?社會學者でありフェミニズム研究の第一人者である上野千鶴子氏と、自身の著書『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』で戦後思想史を問い直した與那覇潤氏による対談は、文學とジェンダー、敗戦という歴史的経験が男性作家の描く女性像にいかに影響したかという白熱した議論へと展開した。その一部を紹介する。

上野千鶴子氏、與那覇潤氏の著作を評価するもフェミニズム的視点から不満も表明

與那覇氏の著作について、上野氏はフェミニズムの視点からも非常に興味深く読んだと評した。與那覇氏自身も、あとがきで自身の著作が「わたしなりのフェミニスト批評の企てでもある」と記していることを認めている。

しかし、上野氏には不満もあったという。この点が対談における重要な論點となった。

戦後文学における「母」の崩壊と男性の依存構造

上野氏は、江藤淳が約60年前に著した『成熟と喪失 “母”の崩壊』に言及。この著作は、日本の敗戦が家父長的で権威的な父親像を崩壊させただけでなく、「母」という存在をも崩壊させ、男性が母性に頼ることができなくなった日本のあり方を文学を通して見つめたものだ。

にもかかわらず、上野氏は戦後文学において、男性が女性に依存し続け、自己の都合の良いように利用してきたと指摘する。

女性は「裁く者」となり、男性の敗北を引き受ける存在か?

與那覇氏はこれに対し、太宰治、柴田翔、村上春樹といった作家たちが、自身の小説の中で女性に捨てられる形で男性が裁かれているのではないかと問い返した。大佛次郎の『宗方姉妹』においては、より年長の作家ながら、女性が「男はダメだ」と口にしない代わりに、男性が定めたモラルを過剰に実践することで、中途半端な男性の無責任さを浮き彫りにしていると分析。これは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にも通じる構図だと述べた。

上野千鶴子氏が戦後文学の「男性の妄想」を一刀両断 「いい加減にしろ」と痛烈批判戦後文学における女性像や男性依存について語る対談中の上野千鶴子氏

上野氏は與那覇氏の分析に同意しつつも、「結局、女が敗戦した日本、あるいは転向した男に背くことによって、倫理主体になっている」と指摘。つまり、女性が男性の失敗や挫折の後始末を担うことで、物語における倫理的な役割を負わされているというのだ。

上野氏の痛烈な批判:「いい加減にしろ」、「ケアする性」への異議

この構図に対し、上野氏は「私に言わせると、『いい加減にしろ』なんです」と強い言葉で批判。結局女性が男性の敗北を引き受け、「ケアする性」としての役割を押し付けられているのではないかと問題提起した。

さらに、本書で取り上げられている作家が全員男性である点を挙げ、こうした女性像は「男性が女性的なるものに仮託した妄想でしょう」と断じた。これは、男性作家が自身の都合や内面を投影するために、現実の女性とは異なる、理想化されたり役割を押し付けられたりした女性像を描き出しているという厳しい見方だ。

男性作家の「自己反省的妄想」と公私世界の関連性

與那覇氏は、こうした描写が確かに「ファンタジー」であることは認めつつも、それが「自己反省的な『妄想』である分には、敗戦や挫折の受けとめ方として評価したい気持ちがある」と反論。自己実現に都合の良い女性を夢想するのとは異なり、妄想の「向き」が逆だった点に、戦後日本の文学におけるある種の真摯さがあったのではないかとの見方を示した。

しかし上野氏は、それは結局、女性を倫理主体として構築することで、男性が自らの敗北を裁くという文学的な構図に過ぎないのではないかと問い返した。そして、こうした文学作品の中に表象される私的な世界での男女関係や女性像が、公的な世界のあり方とどのように通じ合っているのか、その点が重要であり、さらに知りたいと述べて、対談の一部を締めくくった。

参考資料