手塚治虫『ブラック・ジャック』、大全集ですら読めない「幻の回」とは?未収録エピソードの謎に迫る

手塚治虫先生が生んだ不朽の名作『ブラック・ジャック』は、連載開始から半世紀近くが経った今なお、多くのファンに愛され続けています。天才外科医ブラック・ジャックの活躍を描く本作には、数々の感動的、あるいは衝撃的なエピソードが存在しますが、実はその全てが現在刊行されている単行本に収録されているわけではありません。「大全集」と銘打たれた決定版ですら収録されなかった、いわゆる「幻の回」が存在するのです。これらのエピソードはどのような内容で、なぜ「幻」となったのでしょうか。

『あなたが選ぶブラック・ジャックBest 40』の表紙画像。未収録エピソードが話題となる作品『あなたが選ぶブラック・ジャックBest 40』の表紙画像。未収録エピソードが話題となる作品

単行本未収録の理由と「大全集」の存在

連載初期の漫画作品においては、雑誌掲載時のエピソードが必ずしも全て単行本に収録されるわけではない、というのは比較的よくあることでした。藤子・F・不二雄先生の『ドラえもん』にも、初期には単行本未収録のエピソードが複数存在します。『ブラック・ジャック』も例外ではなく、少年チャンピオンコミックスでの初期単行本には、掲載順の変更や未収録エピソードが見られました。

その後、様々な形で単行本化が繰り返される中で、より多くのエピソードが収録されるようになります。中でも、2012年に復刊ドットコムから刊行された『ブラック・ジャック大全集』は、雑誌掲載時と同じ順番で、それまでのどの単行本よりも網羅的にエピソードを収録した、まさに決定版と呼べる存在です。しかし、この『大全集』をもってしても、なお収録されなかったエピソードが3つ存在すると言われています。そのうち、比較的詳細が知られている2つのエピソードに焦点を当ててみましょう。

友情と裏切り、「指」エピソードの衝撃

ひとつ目は、「週刊少年チャンピオン」1974年6月24日号に掲載された第28話「指」です。このエピソードは、少年時代のブラック・ジャック(本間血腫の手術を受ける前の間黒男)が登場するという珍しい設定から始まります。車いす生活を送っていた少年時代のブラック・ジャックは、多指症のために周囲から差別されていた間久部緑郎という少年と出会い、お互いを励まし合いながら過ごしていました。

しかし成長後、間久部は犯罪組織のボスとなり、指名手配される身となります。彼は指紋を変える手術をブラック・ジャックに依頼しますが、手術が成功した後、口封じのためにブラック・ジャックを殺害しようと企てます。九死に一生を得たブラック・ジャックは、逮捕された間久部が無罪を主張する中で、ある証拠を提出します。それは、かつて学生時代にブラック・ジャックが切除した間久部の6本目の指でした。この指から指紋が照合されたことで、間久部は追いつめられ、ブラック・ジャックは友情のむなしさを感じながら立ち去っていく、という結末を迎えます。

「指」は一度も単行本に収録されたことがありませんが、第227話「刻印」として改作され、そちらが単行本に収録されています。「刻印」では、間久部が多指症で差別されていた過去や、切除した指が証拠となる部分は共通していますが、結末などが差し替えられています。ストーリーの大部分が「刻印」と重複するため、「指」が単行本から外された理由としては、改作版の存在が大きいと考えられます。

生命の尊厳を問う、「植物人間」エピソード

ふたつ目は、同じく「週刊少年チャンピオン」1974年9月23日号に掲載された第41話「植物人間」です。豪華客船の事故により、手当が遅れた母親が脳死状態に陥ってしまいます。幼い息子が母親の回復を強く願う姿を見たブラック・ジャックは、母親の脳がまだ生きている可能性を信じ、周囲の医師たちの反対を押し切って、息子の脳と母親の脳を一時的に接続するという、当時としては極めて大胆な手術を決行します。

脳に電流を流すと、息子は突然涙を流し始めます。手術後、息子は「真っ暗な中で、お母さんに会った」と語ります。その中で母親は息子を抱きしめ、「ええ生きてますとも 死んでなんかいないわ」「おかあさんのきずはね いまのお医者にはけっしてなおせないわ」と語りかけ、医者になりたいと言っていた息子に「お医者になったらおかあさんをなおしてね」と励まして姿を消したと話します。手術に反対していた医師たちはうなだれますが、母親を治すという強い決意を胸にする息子を背に、ブラック・ジャックは何も言わず病室を出ていく、という結末です。

この「植物人間」エピソードも、現在一般的に流通している単行本には収録されていません。当時としては非常にデリケートなテーマであった脳死や、科学的根拠の乏しい脳接続といった描写が含まれていることが、未収録の理由として推測されます。しかし、生命の尊厳や親子の絆を描くこのエピソードは、ブラック・ジャックという作品の持つ医療を超えたテーマ性を象徴しているとも言えます。

まとめ:今なお「幻」とされる理由

「指」と「植物人間」、これら2つのエピソードは、手塚治虫先生自身や当時の編集部、あるいは社会的な状況など、様々な要因によって単行本収録が見送られ、「幻の回」として長くファンの間で語られてきました。「指」は「刻印」として形を変えて収録されたものの、オリジナル版は読むのが困難です。「植物人間」に至っては、改作版もなく、その存在を知るファンは限られています。

『ブラック・ジャック大全集』をもってしてもこれらのエピソードが収録されなかったことは、単にページ数の都合だけでなく、何らかの編集上、あるいはテーマ上の判断があったことを示唆しています。しかし、これらのエピソードが存在したという事実は、ブラック・ジャックという作品が、常に時代や社会と向き合いながら、様々な表現に挑戦し続けた証でもあります。今なお「幻」とされるこれらのエピソードは、手塚治虫作品の奥深さを改めて感じさせてくれる存在と言えるでしょう。

参照元

https://news.yahoo.co.jp/articles/1f1fdcab80329c9da123402993481914be4bad73