海上自衛隊潜水艦の知られざる実力:「沈黙の艦隊」が描く世界と現実

累計3200万部を超える大ヒットとなったかわぐちかいじ氏の漫画『沈黙の艦隊』。日本の指揮下を離脱した原子力潜水艦「やまと」とその艦長、海江田四郎二等海佐のストーリーは多くの読者を魅了し、2023年には実写映画化、2024年9月にはその続編も公開予定です。この作品を通じて潜水艦に関心を持った人も多いでしょう。しかし、現実の海上自衛隊の潜水艦はどのような目的で使われ、どのようなメカニズムで海に潜るのでしょうか。そして、『沈黙の艦隊』が描く世界と現実にはどのような違いがあるのでしょうか。元海上自衛隊幹部で潜水艦に詳しいオオカミ少佐氏の著書『海上自衛隊 潜水艦 最強ファイル』(河出書房新社)に基づき、日本の潜水艦戦力の現在地を探ります。

潜水艦の真価とは?優劣を決める要素

オオカミ少佐氏は、『沈黙の艦隊』を海上自衛隊や潜水艦を知る上で有益な作品としつつも、一部に誤ったイメージがあることを指摘します。潜水艦の性能は、潜航深度や速力といった分かりやすい指標で語られがちですが、その真価は求められる用途によって異なります。最も重要な要素は「静粛性」と「探知能力」、すなわち「いかに相手に見つからず、いかに相手を見つけるか」にあると述べています。

日本の海上自衛隊の潜水艦は、主に敵の潜水艦に対抗することを第一義としています。その存在意義は、日本近海において敵の艦艇、特に潜水艦の行動を制限することです。潜水艦は待ち伏せに適した兵器であり、日本の通常型潜水艦はその能力の大部分を待ち伏せに割り振っています。宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡、大隅海峡、そして沖縄本島から宮古島にかかる辺りといった「チョークポイント」と呼ばれる重要な海域において、相手に「潜水艦がいるかもしれない」と思わせるだけでも、敵は対潜水艦戦を想定せざるを得なくなり、行動が大きく制限されるのです。

原子力潜水艦と通常型潜水艦:能力の違いと日本の選択

『沈黙の艦隊』に登場する「やまと」は原子力潜水艦(原潜)ですが、現在の海上自衛隊が運用しているのは通常型潜水艦です。通常型はディーゼルエンジンで発電し、バッテリーに蓄えた電力でモーターを駆動させて潜航します。ディーゼルエンジンを稼働させるためには、海面に比較的近い深度まで浮上し、スノーケルと呼ばれる管を海面上に出して給排気を行う必要があります。捕捉を避けるため、船体は潜航したまま最小限の頻度で行われます。通信も極力控えるなど、探知されないための努力がなされています。

一方、原潜は給排気が不要な原子力発電によって電力を得るため、空気を求めて海面近くに浮上する必要がなく、ほぼ半永久的に潜航が可能です。素朴な疑問として、どちらの能力が高いのでしょうか。オオカミ少佐氏は、1対1で戦うならば原潜が有利であると語ります。電力の制限がないため、中の人間が活動できる限り潜航を続けられます(現実的には3ヶ月程度が限界とされる)。対して通常型は、バッテリー性能にもよりますが、数日から数週間程度が限度です。最新型ではリチウムイオン蓄電池の搭載により蓄電量が増え、性能は向上しています。時間無制限・範囲無制限で、どちらかが沈むまでという実戦に近いルールであれば、原潜が圧倒的に有利になる可能性が高いとのことです。

海上自衛隊の最新鋭「たいげい」型潜水艦「らいげい」の姿。リチウムイオン蓄電池で潜航性能が向上。海上自衛隊の最新鋭「たいげい」型潜水艦「らいげい」の姿。リチウムイオン蓄電池で潜航性能が向上。

なぜ自衛隊は原子力潜水艦を持たないのか

これほど強力な原潜が、なぜ海上自衛隊に導入されないのでしょうか。国民の原子力発電に対するアレルギーが大きいのでしょうか。オオカミ少佐氏は、それも理由の一つとしつつ、最大の理由はコストにあると説明します。艦艇との戦闘を主目的とする潜水艦の場合、原潜の建造費は約4000億円にも達し、約700億円の通常型の5~6倍です。加えて、乗員も2倍近く必要となります。さらに、一般的な原潜は10年に一度程度、船体を切断して核燃料を交換する必要があり、非常に危険で高コストです。使い終わった際の廃棄コストも、原発の原子炉廃棄と同様にかかります。このような原潜を必要数揃えることは、日本の防衛予算では現実的ではないのです。近海を守るという日本の防衛戦略においては、これまでのところ原潜を持つメリットは少なかったと言えるでしょう。

しかし、この状況も変わりつつあります。防衛省が進めている研究の一つに、潜水艦に弾道ミサイル発射用の垂直発射装置(VLS)を搭載させるというものがあります。ミサイルは大型であるほど強力で遠くまで飛ばすことが可能です。VLSは通常型にも搭載可能ですが、一般的に原潜は通常型より大型化しやすく、半永久的に潜航できる特性(敵からの攻撃を受けにくい)からVLS搭載にはより向いています。もし潜水艦に対地攻撃能力が求められるようになれば、原潜導入の声が強まる可能性も考えられます。

100年培った日本の技術と人材:中国に対する優位性

現在の日本にとって第一の仮想敵国と考えられるのは中国です。ここ30年間で中国の国防予算は30倍以上に膨れ上がり約36兆円に達しました。近年まで5兆円程度で推移してきた日本の防衛予算は大きく水をあけられています。中国の戦力は単純な能力だけでなく、その活動も活発化させています。こうした中国の脅威に対し、海上自衛隊の潜水艦は依然として優位性を保っているとオオカミ少佐氏は分析します。

ここ20年で中国軍の航空戦力や水上艦艇の戦力は自衛隊を凌駕しているものの、潜水艦の能力はそう簡単に増強できるものではないからです。最新鋭潜水艦の設計図を手に入れ、莫大な資金を投入したとしても、すぐに建造できるわけではありません。深く潜る潜水艦の強度を左右する耐圧殻は、高い水圧に耐えるために真円であることが求められます。そのための材料は、丸く加工しやすい柔らかさと、水圧に耐えうる硬さという矛盾した性質を両立させる必要があります。これには基礎段階からの高いレベルの材料工学の研究と、熟練した加工技術が不可欠です。船内に搭載する機材に関しても、互いが接触すると故障や潜水艦が嫌う騒音の原因となるため、ミリ単位の精密な調整が必要であり、これも熟練した技術者にしかできません。潜水艦はまさにその国の工業力の結晶と言えるでしょう。

このような高度なノウハウは、一朝一夕に得られるものではありません。日本の潜水艦技術は、旧日本海軍時代から100年かけて、川崎重工や三菱重工といった大手企業だけでなく、数千ともいわれる国内の関連企業を含めた基盤によって培われ、維持されてきたものです。

さらに、この能力は建造面だけでなく、潜水艦に乗る「ヒト」の技量にも表れています。潜水艦は、優れた潜水艦乗りが運用して初めてその真価を発揮します。例えば『沈黙の艦隊』の海江田艦長のような高度な技量が必要です。こうした「ヒト」を育成するには長い年月がかかります。中国は潜水艦戦力の拡張に力を入れていますが、技術的にも潜水艦乗りの技量的にも、まだアメリカの潜水艦に比べて2~3世代遅れていると見られています。日本の海上自衛隊の潜水艦戦力は、中国に対抗できる数少ない戦力の一つであり、数の劣勢を質でカバーするという戦略が求められています。日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中で、海上自衛隊の潜水艦の重要性はますます高まっているのです。

参考文献: