戦局が悪化する中、日本では昭和18年(1943年)、学徒出陣が実施されました。中でも、明治神宮外苑競技場で行われた「出陣学徒壮行会」は、多くの人々の心に焼き付いています。この壮行会で、東京帝国大学生・江橋慎四郎氏は「生等もとより生還を期せず」という言葉を含む答辞を読み上げました。しかし、戦後に生還した江橋氏は、その言葉との対比から激しい批判にさらされます。彼は長らく沈黙を守ってきましたが、93歳になってついにその重い口を開き、知られざる本音と事実を明かしたのです。
昭和18年、学徒出陣壮行会の実像
昭和18年(1943年)、戦況悪化に伴い学徒出陣が実施されました。中でも象徴的なのが、明治神宮外苑競技場での「出陣学徒壮行会」です。学生服の学生が銃を肩に行進する姿や、「雨の中の儀式」「見送る女学生たちの涙」「決然と行進する学徒」といったナレーションは今も語り継がれます。しかし、当時の学生たちの全てが映像のように決然としていたわけではありません。戦後、学徒出陣を経験した複数の元学生に取材した保阪正康氏によれば、多くの人が「戦場での死を覚悟していた」と語る一方で、東京帝大の元学生(戦後大手企業役員)は「とうとう戦争に引っ張り出されるのかと複雑な気持ちでした。戦場には行かないようにと願っていましたね」と本音を漏らしています。多くの学生が同様の複雑な思いを抱えていたはずだと述べています。当時、大学・高等専門教育を受けていた学生は同年代男性の約3%と極めて少数で、本来温存されるべき存在でしたが、兵士不足のため動員されたのです。
学徒出陣で戦場へ向かう学生たち(イメージ)
江橋慎四郎氏の答辞:込められた葛藤
壮行会では、東條英機首相らの挨拶に続き、学生側を代表して慶応義塾大学医学部の奥井津二氏が壮行の辞を述べました。奥井氏は見送りの学生たちに向け、「再び学園で会おう」との思いを滲ませながら言葉を結んでいます。最後に答辞を読んだのは、東京帝国大学文学部の江橋慎四郎氏でした。当時の新聞は江橋氏を「角帽の下に光る眼鏡も痛々しいほどの学徒」と描写しています。江橋氏は風雨が奉書紙を揺らす中、戦況が熾烈であると告げた上で、次の有名な一節を淡々と読み上げました。「生等今や見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身を以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。在学学徒諸兄、亦遠からずして生等に続き、出陣の上は、屍を乗越え乗越え邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り(以下略)」。特に「生等もとより生還を期せず」の一節は、戦後も様々な文脈で引用されることとなります。
戦後、沈黙を破った93歳の証言
江橋慎四郎氏自身は、答辞で「生還を期せず」と述べたにもかかわらず生還したことから、戦後に「生きているではないか」といった厳しい批判にさらされました。また、答辞の内容に対する責任論を問われたり、「この学生は即日帰還扱いを受けて生き延びた」といった間違った論難まで投げかけられます。しかし、江橋氏自身はこうした様々な声に対し、一切答えず、長い間沈黙を守り通しました。彼は93歳という高齢になり、保阪正康氏に対して初めて、当時の葛藤や胸中、そして長年語られなかった隠された事実について語り始めたのです。
学徒出陣の象徴的な言葉となった江橋慎四郎氏の「生還を期せず」。しかし、戦後に生還した彼を待っていたのは厳しい批判と、それに対する長年の沈黙でした。93歳になってようやく明かされた氏の本音と事実は、当時の学徒たちが抱えていた複雑な心境、そして戦争という歴史が個人に与えた深い影響を改めて問い直す機会を与えてくれます。彼の言葉は、戦争を多角的に理解する上で貴重な証言となるでしょう。
出典:保阪正康『戦争という魔性 歴史が暗転するとき』(日刊現代)