連続テレビ小説『あんぱん』で、今田美桜演じるヒロインの成長が描かれる中、第10週「生きろ」のある一幕が大きな波紋を呼んだ。それは、北村匠海演じる息子・嵩の出征を前に、母・登美子(松嶋菜々子)が発した「死んだらダメよ!」「生きて帰ってきなさい!」という痛切な叫びだ。この一言は、当時の戦時下の「世論」に真っ向から反するものであり、その異端さが多くの視聴者に強い印象を与えた。
戦時下の「世論」と登美子の異端な叫び
今作が描く戦時下では、「お国のために命を捧げるのは名誉なこと」「日本は必ず戦争に勝つ」といった、国家や戦争を肯定し、個人の命よりも大義を尊ぶ価値観が社会全体を覆っていた。このような時代背景において、出征する兵士に対し「生きて帰れ」と願うことは、非国民的な行為と見なされかねない極めて危険な言動だった。少しでも疑念や異なる意見を口にすれば、たちまち周囲から白い目で見られ、社会から排除されてしまう。登美子の叫びは、まさにそうした強固な「世論」と「同調圧力」に対する、母としての本能的な、そして異端な抵抗だったと言える。
現代社会に潜む「見えない空気」としての世論
登美子の叫びが私たちに突きつける問いは、過去の出来事だけにとどまらない。現代社会にもまた、「世論」という名の見えない空気が確かに存在し、私たちの価値観や言動は、知らず知らずのうちにその空気に影響されている。インターネットやSNSの普及により、多くの人々の意見が容易に見えるようになったことで、「多数派の意見に従っていれば安心だ」「反対意見を言えば孤立するかもしれない」といった恐怖心が生まれやすくなっている。本来、多様な意見があって然るべきなのに、ニュースやSNSで繰り返し「世論」とされる声を目にするうちに、「これが正しい考え方なのだ」と思い込んでしまうことがある。SNSでは本音を書き込めても、現実社会では自分の真意を表現できない、という人も少なくないだろう。安全で無難なコミュニケーションを選び、自分の意思や感情がほとんど込められていない「それっぽい世論」を口にしてしまう経験は、多くの人にあるのではないか。
朝ドラ「あんぱん」戦時下、息子・嵩に「生きて帰ってきて」と叫ぶ母・登美子(松嶋菜々子)
個の言葉の力と「世論」の限界
どれだけ強固な「世論」や「空気」に乗っていたとしても、時代や状況が変われば、かつての正義や価値観はあっけなく覆ることがある。歴史がそれを証明している。だからこそ、他者の目を恐れず、自らの心のままに発せられた「個の言葉」は、たとえ少数派の意見であったとしても、人々の心に深く響き、時に時代を動かす力を持つ。ドラマの中で、それまで「ひどい母親」と評されることもあった登美子に対し、多くの視聴者が「よくぞ言ってくれた」「あの場であの言葉を言えるのはすごい」と感じたのは、まさにその「個の言葉」の力が人々の胸を打ったからだろう。戦争が終結し、「日本は勝つ」という世論を信じ切っていた人々が深い失意と混乱に陥った一方で、自分の視点と自身の言葉で現実を見つめようとしていた人は、どんな逆境にも耐えうる内なる力を持っていたはずだ。
世論に流されずに生きるために
「世論」や社会の空気に安易に流されず、自分らしく生きるためには、まず「自分の頭で考え、自分の意見を持つこと」が必要不可欠だ。そして、その意見を「言葉にして伝えること」、たとえ相手に反対されても、それを表現する勇気を持つことが求められる。さらに、それを受け止める側にも、他者の言葉を頭ごなしに「否定せずに認める」姿勢が重要となる。相手の考えを完全に理解できなくても、「そういう考え方もあるのだな」と一旦受け止められる人が増えれば、社会全体はもっと寛容で、多様な意見が尊重される場所になるだろう。登美子の「生きて帰ってきなさい」という魂の叫びは、戦時下という極限状況における「個の言葉」の力を鮮烈に描き出し、現代を生きる私たちに、同調圧力に屈せず自らの言葉を持つことの重要性を改めて思い出させてくれた。朝ドラ史に刻まれるべき、重要なシーンとなったと言えるだろう。