2007年に命がけで北朝鮮を脱出し、日本へたどり着いた李京姫さん(40)は、24歳で夜間中学に入学し日本での新たな生活をスタートさせました。日本には脱北者への公的な支援制度がほぼありませんが、李さんは生活保護や民間の助けを借りながら苦学の末、8年という歳月をかけ看護師の国家資格を取得しました。しかし、命がけで日本に来ても定着できずに挫折する脱北者は多いのが現状です。李さんは「頑張る脱北者の背中を押してくれる支援があってほしい」と切に願っています。
北朝鮮・平壌の金一家肖像画とチマ・チョゴリを着た人々
中国での保護生活と日本語との出会い
脱北後、李さんは一時保護された中国・瀋陽の日本総領事館で、同じ境遇の脱北者十数人と共同生活を送りました。パスポートがないため、領事館の敷地外には一歩も出られませんでした。領事の差し入れで韓国ドラマを見たり、週に一度体育館でバドミントンをしたりする生活。テレビは中国語の番組と日本のNHKが流れていました。
来日当時、李さんが知っていた日本語は「こんにちは」「りんご」「お母さん」などわずかでした。番組内容の理解は到底不可能でした。そこで、来日後の生活を見据え、日本への渡航許可が下りるまでの期間を日本語の勉強に充てることにしました。館内にあった日本語の参考書を使い、猛勉強を重ねました。その努力は領事が「頭が下がる」と感心するほどでした。
来日後の苦難:夜間中学と両立させたアルバイト生活
保護されてから約1年後の2008年11月、李さんは来日。「うそのような感覚」で空港に降り立った瞬間を覚えています。しばらく親族の家に身を寄せた後、単身上京。2009年4月、都内の夜間中学に入学しました。
生活費を稼ぐため、マクドナルドや日本橋のダイニングバーでアルバイトを始めました。朝8時から午後4時まで働き、午後5時からの授業に出席するというハードな毎日でした。それでも、古い安アパートの家賃や携帯代、電車代を支払うとすぐに残高は底をつきました。不足分を補うため、友人から1万円を借りて翌月返すという「自転車操業」が日常でした。
日本で父親からの手紙を受け取る脱北者の李京姫さん
命がけの脱北を経て、日本で看護師国家資格を取得した李京姫さんの物語は、困難を乗り越える力と希望を示しています。一方で、日本社会で言葉や制度の壁に直面し、定着できずに苦労する脱北者も多くいます。李さんの「頑張る脱北者の背中を押す支援」への願いは、日本における支援の現状と今後の課題を浮き彫りにしています。彼らが安定した生活を送り、社会の一員として活躍できるよう、より良い支援体制が望まれます。