声優の林原めぐみ氏が2024年6月8日に投稿したブログ記事が、インターネット上で大きな議論を巻き起こし、炎上状態となりました。記事は一見すると「米不足」への疑問や「選挙に行こう」という呼びかけ、被災地や日本の学生への思いやりなど、多くの人にとって真っ当に見える内容を含んでいました。しかし、この記事がなぜこれほどまでに批判を浴び、「炎上」に至ったのか。その背景には、現在の日本社会に潜む微妙な排外主義的言説の影響が見られます。本記事では、林原氏のブログに見られる特定の表現に着目し、その言説が持つ意味合いと、それが示唆する社会的な課題について、客観的な分析を行います。
一見「真っ当」な主張に潜む違和感
林原氏のブログには、「テレビが伝えない」「報道規制」といった、特定のメディアへの不信感を示す言葉や、「一部の海外留学生に無償で補助 日本の学生は奨学金」として、外国人留学生への優遇に疑問を呈する記述、そして「日本ザリガニがあっという間に外来種に喰われちゃったみたいに」といった比喩(後に削除)が見られました。これらの言葉選びの中に、外国人に対する漠然とした不安や恐れ、あるいは不信感が滲み出ていると指摘されています。
特に「外来種」という言葉の使用は決定的でした。この単語は本来、生物学において生態系に影響を与える生物を指す用語ですが、近年インターネット上の差別的な文脈で、外国人をネガティブな存在として形容する際に隠語的に使われることがあります。コミュニケーション不可能な「排除すべき存在」というニュアンスを込めて使われる場合があり、このような文脈での使用は、対象を蔑視する意図を疑わせるものです。林原氏がどのような意図で使ったかは不明ですが、特定の排外主義的な言説の中で頻繁に用いられる言葉であるため、大きな波紋を呼びました。
声優 林原めぐみ氏の公式ブログ画面。今回のブログ炎上に関する記事の画像。
外国人留学生への誤解と排外主義の論法
林原氏のブログで特に批判が集まった点の一つに、外国人留学生と日本の学生を比較し、外国人が優遇されているかのように示唆する論法があります。これは「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の後継団体である日本第一党などの主張と共通するものです。
しかし、国費留学生は全体の外国人留学生のわずか数パーセントに過ぎず、その多くは母国のトップエリートです。彼らを日本に招き、知日家を育成し、将来的に各国の要職に就く彼らとの間に日本のパイプを作ることは、日本の国益に大きく貢献します。国際競争力を高めたい日本の大学にとっても、彼らの存在は重要です。金銭的な支援を受けている国費留学生と、大多数を占める私費留学生(日本の学生と同様に学費を払っている)や日本の一般的な大学生を単純に比較して「外国人は優遇されている」と主張することは、事実に基づかない偏見と言わざるを得ません。これは、「日本を愛している」と称しながら、実際には日本の国益に反するような言説を広めているという皮肉な状況を示しています。
広がる外国人への漠然とした嫌悪感と社会の現実
林原氏のブログが多くの反響を呼んだ背景には、彼女の本来持っているであろう素朴さや他者への思いやりといった側面と、排外主義的な言説の影響が見え隠れする言葉遣いとの間のギャップがあったと考えられます。しかし、彼女と同様に外国人に対して漠然とした不安や嫌悪感を抱いている日本人が少なくないことも事実です。
繁華街での外国人観光客の増加、電車内での大きな荷物、そしてインターネット上で頻繁に見かける外国人による犯罪や迷惑行為に関する情報などが、そうした感情に影響を与えている可能性があります。しかし、犯罪発生率という観点で見れば、外国人による犯罪発生率は日本人とほぼ同水準であり、外国人犯罪ばかりを強調して取り上げることはフェアではありません。もちろん、性善説に基づいた従来の日本の制度が現状にそぐわない部分があり、厳格化の必要性は議論されるべきですが、外国人全体を問題視するのとは異なります。
現在の日本経済は、電子機器や鉄鋼といったかつての主力産業が競争力を失う中で、「観光立国」を掲げ、外国人観光客による消費に大きく依存しています。これは、裏を返せば、日本が経済的に外国人なしには成り立ちにくくなっているという現実を示しています。日本への外国人の増加は、日本政府自身が観光客や留学生の誘致目標を高く設定し、積極的に増やそうとしてきた結果でもあります。自分たちで招き入れたにもかかわらず、増えたことに対して不満を漏らすという状況は、客観的に見れば矛盾を抱えています。
事実よりも感情が優先されるインターネット空間
このような状況に対し、外国人留学生のデータや観光客の経済効果といった事実を提示し、排外主義的な主張の誤りを指摘しても、その意見を変える人は少ないのが現状です。特にインターネット、とりわけSNS空間では、客観的な事実よりも「自分の信じたい事実(私の事実)」が優先されがちです。「私の事実」に合わない意見に対しては、「右翼」「左翼」といったレッテルを貼り、聞く耳を持たないという傾向が見られます。
インターネットは多くの情報へのアクセスを可能にした一方で、読み書きはできても、異なる意見や事実に耳を傾け、言葉を尽くして理解し合うことが困難な、ある種の断絶を生み出している側面があります。事実の提示だけでは届かない人々の存在が、今のインターネット空間の課題と言えるでしょう。林原氏のブログ炎上は、個人の発言の波紋であると同時に、現代日本社会とインターネット空間が抱える複雑な問題の一端を浮き彫りにしています。
Source: https://news.yahoo.co.jp/articles/d2396aa044167e2164da297e31560e200290bef6