新年度が始まり2カ月が経過し、様々な組織で新たなチームが動き出している時期です。こうした中、世界的に活躍したアートディレクター故・石岡瑛子氏(1938〜2012年)が実践していた独自のチーム編成術が注目されています。彼女は大きなプロジェクトを始める際、あえて「凡人」と「変人」をチームに加えることをポリシーとしていたと言います。作家・五木寛之氏が自身の著書『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)の中で明かした、石岡氏の組織づくりにおける哲学とその背景に迫ります。
国際的に活躍したアートディレクター、石岡瑛子の功績
石岡瑛子氏は、日本人デザイナーとして初めてグラミー賞を受賞した革新的なアートディレクターです。その功績はグラミーにとどまらず、映画「ドラキュラ」でアカデミー衣装デザイン賞、カンヌ国際映画祭での受賞など、多岐にわたります。2008年には北京オリンピック開会式の衣装デザインを手がけるなど、文字通り世界の第一線で活躍しました。作家の五木寛之氏も、若い頃に雑誌のグラビア構成や本の装幀、さらには自身の書いた芝居の舞台美術まで石岡氏に依頼するなど、様々な仕事で関わりがあったといいます。
1992年、映画「ドラキュラ」の衣装でアカデミー賞を受賞した石岡瑛子氏と俳優キアヌ・リーブス
五木氏が見た苦悩:「泣きながら雑巾がけ」のエピソード
五木氏が特に印象深いエピソードとして語るのは、まだ石岡氏があまり世間に知られていなかった頃の、ある新劇の上演での出来事です。広告の世界から来たデザイナーということで、劇団関係者や美術スタッフからほとんど相手にされなかったといいます。初日の幕が開く前夜、石岡氏が一人舞台を雑巾がけしていたにも関わらず、誰も手伝ってくれなかった。「あの時は泣きながら雑巾がけしたんだから」と、普段気の強い石岡氏が涙ながらに語ったそうです。これは、まだアートディレクターという言葉すらなかった40〜50年前の、日本における先駆者としての苦労を物語っています。資生堂やパルコの広告で一世を風靡したことが、かえって偏見を生んだのかもしれません。仕事への厳しさから陰で「ガミちゃん」と呼ばれた石岡氏でしたが、アメリカに渡ってからはその才能が存分に花開きます。「わたしのような小娘がスタジオにはいっていくと、全員が息をつめてわたしの表情を注視するの。芸歴何十年という俳優さんも、大ベテランの監督も、ことセットの美術に関しては120パーセントわたしの意見を尊重してくれる。そういうのを本当のプロの仕事というんでしょうね。残念ながら日本ではありえない世界だわ」と、彼女は日米のプロ意識の違いについて語っていました。
石岡瑛子氏が、なぜプロジェクトチームに「凡人」と「変人」を意図的に混ぜるポリシーを持っていたのか。その背景には、彼女自身が日本の旧態依然とした環境で「変人」であるがゆえに苦労し、真のプロフェッショナリズムを追求した経験があったことが示唆されます。多様な視点や能力を持つ人材を組み合わせることで、予測不能な化学反応を生み出し、革新的な成果を目指した石岡流の組織論は、現代のチームビルディングや人材活用においても、多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
参考資料
五木寛之著 『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)