沖縄戦:17歳兵士の証言 青酸カリと「島守」知事の最期

沖縄戦は、太平洋戦争末期において最も激しく、悲惨な戦いの一つでした。日本軍は地下壕に潜み、接近する米軍に対し、小銃や手榴弾を用いた抵抗、さらには爆薬を抱えての自爆攻撃など、絶望的な戦術を展開しました。この苛烈な戦場を生き延びた日米両軍の兵士たちは、後にその悲惨な現実を証言しました。ここでは、当時17歳で日本兵として戦った一人の男性の貴重な戦争体験に焦点を当て、沖縄戦の実相に迫ります。

17歳兵士が渡された「自決用」の青酸カリ

1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始すると、戦況は加速度的に悪化しました。当時、海軍航空隊の整備兵だった三枝利夫さん(97歳、兵庫県佐用町在住)は、夜間に米軍陣地へ斬り込む「第一斬込隊」に編入されました。弱冠17歳でした。彼が手渡された装備は、近代的な銃火器ではなく、米軍砲弾の破片を結び付けた竹槍、手榴弾、そして驚くべきことに「自決用」の青酸カリと日の丸の鉢巻きでした。爆薬を詰めた木箱を渡された兵士もおり、生きるための武器というよりは、敵を道連れにするか、自らの命を絶つことを前提としたものでした。

沖縄戦の過酷な体験について証言する三枝利夫さん沖縄戦の過酷な体験について証言する三枝利夫さん

死と隣り合わせの夜襲行

1945年6月上旬、三枝さんは3人1組の斬込隊として、雲一つない月明かりの下、那覇近郊を進んでいました。弾薬を満載した米軍のトラックを発見し、同行していた一等兵が爆薬で攻撃しようとしたその瞬間、至近距離から米兵の銃火を浴びました。一等兵は倒れ、二度と動くことはありませんでした。米軍が打ち上げた照明弾が周囲を真昼のように照らし出し、身を隠す場所はありませんでした。三枝さんは手榴弾を投げつけましたが、もはや抵抗する手段は限られていました。もう一人の兵士と腹ばいになって現場を離れましたが、その兵士は「もうできない」と言って戦線から離脱しました。

地獄の行軍と「島守」知事との出会い

一人きりとなった三枝さんは、日本軍の司令部がある南部を目指して歩き始めました。道中には、腐乱して膨れ上がったおびただしい数の遺体が転がっており、足を取られて何度も転倒しました。まさに地獄のような光景でした。途中、偶然逃げ込んだ一つの壕の中で、故郷である兵庫県の言葉を耳にしました。「君も兵庫か。懐かしいなあ」。ろうそくの明かりに浮かび上がったのは、丸眼鏡をかけた一人の男性でした。彼こそが、内務官僚を経て沖縄戦の直前に沖縄県知事となり、戦時下の困難な状況で住民の避難や食糧確保に奔走し、「島守」として今なお語り継がれる島田叡氏その人でした。島田氏は三枝さんに対し、「僕は絶対に死なへん。生きて帰るんや。君も頑張らなあかんぞ」と力強く励ましました。しかし、島田氏自身も、この地で壮絶な最期を迎えることとなります。

司令部壕で見た衝撃の光景

摩文仁の日本軍司令部壕にたどり着いた三枝さんは、そこで衝撃的な光景を目にします。白い布がかけられた箱が置かれており、その傍らにはビール瓶と缶詰のようなものが並べられていました。将校は三枝さんに「司令官と参謀長が自決される場所だ」と告げました。幹部たちの自決の場所が準備されている現実を目の当たりにし、戦場の異常さを改めて痛感しました。

戦いを終えて、そして今

司令部壕を後にした三枝さんは、なおも戦場を転々とさまよい続けました。米軍に投降したのは9月になってからでした。その時、日本はすでに降伏していました。九死に一生を得た三枝さんは、戦後、沖縄戦の悲惨な体験を決して忘れることなく生きてこられました。彼の証言は、組織的な戦闘の記録だけでは伝えきれない、一人一人の兵士が直面した極限状況と、その中で垣間見えた人間的な交流、そして戦争の理不尽さを私たちに伝えています。三枝さんのような生存者の声に耳を傾けることは、戦争の記憶を次世代に継承し、平和の尊さを改めて認識するために不可欠です。