【主張】中曽根元首相死去 指導力発揮の政治貫いた

[ad_1]

 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。

 国家を忌避しがちな戦後の風潮に阿(おもね)らず、安全保障の確保や自主憲法制定の運動、国民経済の発展に取り組んだ。国家国民に尽くした中曽根氏が不帰の客となったことに哀悼の意を表したい。

 東西冷戦たけなわの昭和57年11月、「戦後政治の総決算」を掲げて首相になった。約5年の在任中、内政では多くの抵抗を排して、国鉄の分割民営化や電電公社、専売公社などの民営化を実現した。経済や国民の暮らしを伸ばす意義があった。

 それでも中曽根政治の真骨頂は外交安全保障にある。戦後の無責任な一国平和主義の是正は、中曽根内閣から始まった。

 前任の鈴木善幸首相が日米同盟について「軍事的意味合いは持っていない」と語り、米国との関係がぎくしゃくしていた中で首相に登板した。ソ連に厳しい姿勢で臨んだレーガン米大統領やサッチャー英首相と緊密に連携した。

 日米同盟を重視し、防衛費の国民総生産(GNP)1%枠撤廃など防衛力充実に動き、それが軍事バランスを西側有利につなげた。冷戦終結に寄与したのである。

 当時、米ソの中距離核戦力(INF)削減交渉で、ソ連の中距離弾道ミサイルSS20の「欧州全廃、アジア半減」案が有力だった。中曽根氏は地域で米国の核抑止力が弱まると危惧し、「ロン、ヤス」と呼び合う関係を築いたレーガン氏に要請してアジア全廃も実現させた。日本の安全保障を重視する中曽根氏の行動がINF全廃条約に結びついた。

 指導力を発揮してリアリズムに基づき日本の平和、安全保障を追求し、冷戦終結や核軍縮に貢献した。戦後日本の首相が世界の有力リーダーに名を連ねたのは、中曽根氏が最初である。

 内務省入省直後に志願して海軍主計士官となり、先の大戦で生死の境をくぐった経験が生きた面があるのだろう。ただし、中韓両国や国内左派勢力の批判を浴びて、靖国神社参拝を定着させられなかったのは残念だった。

 衆院連続当選20回を数えた中曽根氏が、今の政治家とは比べものにならないほど勉強家だったことはもっと広く知られていい。晩年まで憲法改正運動に熱心に取り組んだ。国益を常に考え、真剣に政治に当たった姿勢を、後輩政治家は見習ってもらいたい。

[ad_2]

Source link