2009年、アメリカで発生したある凄惨な事件は、後にホラー映画の衝撃的なシーンのモデルとなりました。テレビ出演経験もあり、周囲から賢く愛される存在だったチンパンジー「トラビス」が、突如、飼い主の友人を襲撃したのです。この前代未聞の出来事は、人間に飼育される野生動物の危険性、そして悲劇の深さを浮き彫りにしました。わずか12分間の出来事が、一人の女性の人生を永遠に変えてしまったのです。本記事では、そのトラビスによる襲撃事件の詳細と、隠された背景、そしてその後の影響について掘り下げます。
愛された「賢い」チンパンジー、トラビスの日常
トラビスは1995年に生まれ、米コネチカット州スタムフォードに住むハロルド夫妻に飼育されていました。彼は非常に高い知能を持ち、日常的に鍵を使って玄関のドアを開けたり、自分で服を着替えたり、テレビのリモコンを操作したり、さらにはパソコンにログインすることまでできたと言われています。その愛嬌ある振る舞いから地元では人気者となり、警官にも挨拶をするほど地域に溶け込んでいました。バラエティ番組やCMにも出演し、メディアでも知られた存在でした。
2004年に飼い主の夫ジェロームががんで亡くなった後、妻のサンドラはトラビスを一人息子のように深く溺愛するようになりました。毎日一緒に湯船に浸かり、同じベッドで眠るほどの親密さだったといいます。サンドラを精神的に支えていたのが、彼女の会社で働き、トラビスとも親しくしていたチャーラ・ナッシュさんでした。
2009年の惨劇:親友への12分間の襲撃
悲劇は2009年2月16日、雪が降る寒い日に起こりました。ナッシュさん(当時55歳)がサンドラさん(当時70歳)の自宅を訪れた際、何の前触れもなく、トラビス(当時14歳)が突然ナッシュさんに襲いかかったのです。サンドラさんは庭からシャベルを持ち出し、さらに家の中から包丁を取ってきてトラビスを必死に引き離そうとしましたが、一度狂乱状態に陥ったチンパンジーの力はすさまじく、ナッシュさんへの攻撃は12分間にも及びました。
異変を察知して現場に駆けつけた警察官が、ついにトラビスに向けて発砲しました。銃弾を受けたトラビスは、よろめきながらも家の中に戻り、自分の檻の傍で息絶えました。事件現場は言葉を失うほど悲惨な状況で、ナッシュさんは両手、鼻、両目、唇、そして顔の中心部の骨格のほとんどを失い、脳組織にも深刻な損傷を負いました。
チンパンジーに顔面を襲われたチャーラ・ナッシュさん
壮絶な被害と回復への長い道のり
ナッシュさんはその後、顎の接着手術、顔面移植手術、そして両手の移植手術など、複数回にわたる大規模な手術を受けました。顔面移植手術は成功したものの、移植された両手は後に拒絶反応を起こし、再度の切断を余儀なくされるなど、回復への道のりは長く、困難を極めました。
この事件を受け、ナッシュさんの家族は飼い主であるサンドラさんに対して5000万ドル(当時のレートで約40億円)の損害賠償を求める訴訟を起こしました。最終的に、約400万ドル(約3億6千万円)の賠償金が支払われることで和解が成立しました。この悲劇は、野生動物を家庭内で飼育することの潜在的な危険性を社会に改めて突きつけることとなりました。
「狂暴化」の背景:原因不明の謎
なぜトラビスは、普段から親しみ、可愛がってくれていたナッシュさんに対して、あのような凶行に及んだのでしょうか。事件後のトラビスの遺体を検視した結果、抗不安剤である「ザナックス」の成分が検出されました。サンドラさんは、トラビスがライム病を患っていたために、この薬を飲ませていたとされています。ザナックスは時に幻覚や攻撃性を引き起こす副作用があると指摘されています。しかし、これが襲撃の直接的な原因だったのか、あるいは他に要因があったのか、その真相は現在も不明のままです。霊長類の複雑な心理や、長期にわたる不自然な飼育環境が影響した可能性も指摘されていますが、決定的な結論には至っていません。
映画「NOPE」との繋がり
2022年に公開されたジョーダン・ピール監督のホラー映画「NOPE/ノープ」は、UFOとの遭遇を描く作品ですが、その劇中に登場するチンパンジー「ゴーディ」が突如暴走するシーンは、このトラビスによる襲撃事件をモデルにしているとされています。映画の衝撃的な描写の背後には、実際に起こった、賢く愛されていた動物が引き起こした恐ろしい悲劇が隠されていたのです。この事件は、人間に飼いならされているかに見える野生動物も、本能的な危険性を常に秘めていることを強烈に物語っています。
まとめ
トラビスによるチンパンジー襲撃事件は、メディアでも知られ、人々に愛された動物が突如として凶暴化し、取り返しのつかない悲劇を引き起こした衝撃的な事例です。被害者のチャーラ・ナッシュさんは壮絶な傷を負い、その後の人生は一変しました。事件の原因は完全に解明されていませんが、抗不安剤の影響や飼育環境の特殊性が指摘されています。この出来事は、野生動物を人間社会で飼育することの倫理的・安全的な問題、そして人間と動物の関係性の複雑さについて、私たちに重く問いかけています。映画「NOPE」を通じて再び注目されたこの実話は、単なるフィクションを超えた現実の恐怖として、今も人々の記憶に残っています。
ソース: 文春オンライン / Yahoo!ニュース