【主張】死刑判決の破棄 裁判員の意義を問い直せ


 大阪・心斎橋の通り魔事件で父親を亡くした中学2年の長女は最高裁の判決を受けて「頑張って決めてくれた裁判員の人たちの気持ちが無駄になってしまった」「裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい」と話した。同感である。

 平成24年6月、心斎橋の路上で通行人の男女2人を無差別に刺殺したとして、殺人罪に問われた被告の上告審判決で、最高裁は1審裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役とした2審大阪高裁の判断を支持した。裁判員裁判による死刑判決が2審で破棄された5件全てが無期懲役で確定することになる。

 最高裁は「死刑適用の慎重性、公平性確保の観点を踏まえると、2審判決の量刑が甚だしく不当とはいえない」と判断した。

 「公平性」とは過去の判例とのバランスを指し、その基となっているのは昭和58年に最高裁が示した「永山基準」である。連続4人射殺事件の永山則夫元死刑囚に対する最高裁判決は死刑選択が許されるとする9項目を示した。中でも殺害された被害者数と犯行の計画性の有無が重視されてきた。

 心斎橋事件の被告は2人を殺害したが、犯行は「場当たり的」で計画性の低さが死刑回避の理由の一つとされた。

 だが遺族にとっては犯行に計画性があろうがなかろうが、理不尽に肉親の命を奪われた被害感情には全く関係がない。

 裁判員制度は国民の常識を刑事裁判に反映させることを目的に導入された。そこには従来の量刑傾向と国民の常識との間に乖離(かいり)があるとの反省があったはずだ。

 制度導入以前の判例との公平性を重視すれば、これが埋まることはない。36年前の「永山基準」がものさしであり続けている現状こそがおかしい。最高裁は、裁判員制度の意義を踏まえた新たな判断基準を明示すべきである。

 死刑判断だけではない。今年10月、東京都目黒区の虐待死事件で保護責任者遺棄致死などの罪に問われた父親の裁判員裁判で、検察側は懲役18年を求刑したが、東京地裁は「従来の量刑傾向から踏み出した重い求刑」としてこれを減じ、懲役13年を言い渡した。

 裁判員の一人は判決後に「自分が思ったところ(量刑)とのギャップが大きかった」と述べた。裁判員制度の趣旨は揺らいではいないか。問い直すときである。



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