大河ドラマ「べらぼう」で衝撃的に描かれた、老中・田沼意次の子、若年寄・田沼意知の暗殺は江戸城内で起きた史実です。この事件は権勢を誇った田沼意次の失脚に繋がりますが、天下泰平の世といわれた江戸時代にあっても、将軍の居城である江戸城内、いわゆる「殿中」では、実は同様の刃傷事件が複数回発生していました。権力中枢がいかに危うさと隣り合わせであったかを示す歴史的事実です。
江戸城内の刃傷事件:田沼意知以前の記録
江戸時代の約260年間で、江戸城内で起きた刺殺や刃傷事件は、記録によって7件から11件あったとされています。これらの事件の背景には、武士の面目、藩の存続、あるいは政治的な対立など、様々な要因がありました。最も古い記録の一つとして有名なのが、3代将軍徳川家光の時代に発生した老中・井上正就刺殺事件です。
最古の記録?老中・井上正就刺殺事件
寛永5年(1628年)8月10日、江戸城西の丸の廊下にて、老中・井上正就(当時51歳)は旗本の豊島信満によって刺殺されました。その場に居合わせた者が豊島を取り押さえようとしましたが、豊島は脇差しで自らの腹を刺し、井上正就を道連れに自害しています。
大河ドラマ「べらぼう」で田沼意知を演じる宮沢氷魚氏、パリファッションウィークにて
事件の動機と「殿中」の意味
この事件の背景には、井上正就の嫡男・正利の縁談を巡る豊島信満との確執がありました。豊島信満が進めていた縁談があったにも関わらず、将軍世子・家光の乳母である春日局が鳥居成次の娘を紹介し、正利はこちらと結婚してしまったのです。これにより武士としての面目を失った豊島信満は、井上正就への深い恨みを募らせていました。歴史研究家の菊地浩之氏によれば、豊島のような小身の旗本が大名である老中を討つには、多くの家臣がいる井上邸ではなく、あえて警備の厳重な「殿中」である江戸城内こそが、意図を確実に遂げるための場所であったと考えられます。これは、単なる個人的な復讐を超えた、武士の意地を示す計算された行動でした。
事件の意外な結末
この豊島信満の行動に対し、当時の老中・酒井忠勝は「小身者が大名相手に意地を立てるのは賞賛すべきこと」と評価しました。そして、江戸城内での殺害という重罪であるにも関わらず、豊島一族への極めて寛大な処置を主張し、認めさせたといわれています。これは、当時の武家社会における独自の価値観を示す興味深い事例として伝わっています。
江戸城内での「殿中刃傷」は、田沼意知事件だけでなく、太平の世の権力中枢にも潜む危険と、それを引き起こす武士たちの様々な意図や背景が存在したことを物語っています。これらの事件は、江戸幕府の安定した統治の裏側にある、もう一つの顔を現代に伝えています。