私たちが「あの戦争」と向き合う際、その始まりをどこに設定するかは、その後の歴史認識を大きく左右する重要な問いです。一般的には1941年12月8日の真珠湾攻撃が戦争の起点とされていますが、果たしてそれは十分な理解と言えるでしょうか。本稿では、この複雑な問いに対し、歴史家・辻田真佐憲氏の洞察に基づき、一般的な認識と当時の呼称である「大東亜戦争」の定義から、その全体像を掘り下げていきます。単なる日付の確認に留まらず、「太平洋戦争」と「日中戦争」の間に横たわる意外な連続性に着目し、多角的な視点から「あの戦争」の実態に迫ります。
「太平洋戦争」の始まりとされる1941年12月8日
「あの戦争」の始まりとして、今日最も多くの人に受け入れられているのは、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃です。この日、日本海軍が米海軍の一大拠点であるハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、米太平洋艦隊の主力に壊滅的な打撃を与えた出来事は、その強烈なインパクトから、まさに戦争の象徴的な起点として人々の記憶に深く刻まれています。厳密には、真珠湾攻撃の約1時間前には、日本軍が英領マレー半島に上陸しており、これが実際の戦闘行為としては先行していました。
いずれにせよ、この12月8日中に昭和天皇は米国および英国に対する宣戦の詔書を発布し、日本は両国との間で正式な戦争状態へと移行しました。このため、形式的にこの日を戦争の起点と見なすことは妥当であり、また、戦後一般的に定着した「太平洋戦争」という名称ともイメージが合致するため、多くの人々にとって理解しやすい区切りとなっています。
第二次世界大戦、または太平洋戦争の始まりを象徴する歴史的な情景。日中戦争との連続性に着目した解説記事のイメージ。
「大東亜戦争」が示す「戦争の全体像」
しかし、太平洋戦争の開始日だけでは、「あの戦争」の実態を完全に捉えることはできません。当時の日本政府はこの戦争を「大東亜戦争」と呼称しており、この名称は単なる地理的な呼称以上の意味を持っていました。政府が1941年12月12日に「大東亜戦争」の呼称を発表した際、そこには「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」と明確に説明されていました。この「支那事変」とは、今日「日中戦争」として知られる戦いです。
日中戦争の勃発と実態
日中戦争は、1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が偶発的に衝突したことをきっかけに始まりました。当初は局地的な小規模戦闘と見られていましたが、事態は急速に拡大し、やがて日本と中国の全面衝突へと発展していきました。にもかかわらず、日本も中国も正式な宣戦布告を行うことはありませんでした。この背景には、当時の米国が制定していた中立法(交戦国への軍需品輸出を禁じる法律)の存在があったと言われています。米国からの資源に依存していた両国にとって、公式に戦争状態を宣言することは経済的に不利だったため、日本ではこれを「事変」と呼称しましたが、その実態は疑いようのない大規模な全面戦争でした。
日本は北京、天津、上海、南京、武漢、広州など中国の主要都市を次々に占領し、中国大陸に派遣された日本軍の総兵力は100万以上に達しました。本来、戦時にのみ設置される大本営(天皇直属の最高戦争指導機関)も、この事変のために特例として設置されました。しかし、中国の指導者である蔣介石は内陸の重慶に拠点を移し徹底抗戦を続けたため、日本側は戦争終結の糸口を見出すことができませんでした。
日中戦争と対米英戦争の連続性
当時の日本政府が「大東亜戦争」という用語を、どこまで遡って適用しようと考えていたかについては議論の余地があります。しかし、日本が対米英戦争を開始する以前から、中国大陸で長期間にわたって事実上の戦争を継続していたことは紛れもない事実です。そして、この長引く日中戦争を解決するという意図も、日本が東南アジアへ進出する要因の一つとなり、これが結果的に米国との対立を決定的なものとしました。さらに、日本が米国との外交交渉で妥結に至らず、開戦を決意するに至った理由の中には、この中国からの撤兵問題が深く関わっていました。
こうした歴史的経緯を考慮すると、日中戦争と対米英戦争をそれぞれ独立した戦争としてではなく、一連の連続した戦争として捉えることは決して不自然ではありません。この認識は、今日の感覚とも通じるところがあります。例えば、今日の政府発表で語られる先の大戦の戦没者約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)という数字は、1941年12月からではなく、日中戦争が始まった1937年7月から起算されています。つまり、私たちは知らず知らずのうちに、日中戦争と大東亜戦争を一体的な歴史として認識しているのです。
結論:多角的な視点から「あの戦争」を理解する
「あの戦争」がいつ始まったのかという問いは、単純な日付以上の深い意味を持っています。真珠湾攻撃を起点とする「太平洋戦争」の認識は一般的かつ形式的には妥当ですが、当時の日本政府が「大東亜戦争」に「支那事変(日中戦争)」を含めた事実、そして両戦争が互いに深く関連し、影響を与え合っていた歴史的経緯を考慮すれば、その全体像はより複雑なものとして浮かび上がります。
日中戦争の泥沼化が日本の政策決定に与えた影響、そしてそれが東南アジアへの進出、ひいては対米英開戦へと繋がったことを理解することは、戦後日本の歴史認識を深める上で不可欠です。私たちが「あの戦争」を真に理解するためには、単一の起点に固執することなく、日中戦争から大東亜戦争に至るまでの一連の歴史的連続性を多角的に捉え直すことが重要と言えるでしょう。
参考文献
- 辻田真佐憲著『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)より抜粋・編集。