戦後80年を前に:東京大空襲を生き抜いた吉田由美子さんが語る、戦争孤児の過酷な日々

戦後80年を迎えようとする中、戦争の記憶が風化しつつあります。しかし、その悲劇と平和への切なる願いを次世代に訴え続ける人々がいます。東京大空襲で家族を失いながらも過酷な幼少期を生き抜いた吉田由美子さん(84)の証言は、戦争がもたらす深い傷跡と、平和の尊さを改めて私たちに問いかけます。

吉田さんの手元に、一枚の写真があります。背広姿の男性と着物姿の女性が二人、そしておくるみに包まれた赤ちゃんが写るその写真は、1941(昭和16)年8月3日に撮影されたものです。吉田さんは静かに語ります。「私の生後35日目のお宮参りです。写っているのは両親と母方の祖母で、祖母に抱かれているのが私です。両親の顔は写真でしか知りません。」

東京大空襲生存者 吉田由美子さんの生後35日目の写真、両親と母方の祖母に抱かれる幼い吉田さん東京大空襲生存者 吉田由美子さんの生後35日目の写真、両親と母方の祖母に抱かれる幼い吉田さん

戦禍を生き抜いた幼少期:家族との別れ

1945(昭和20)年3月10日未明、東京の夜空は地獄と化しました。東京大空襲によって一夜にして約10万人もの命が奪われたとされます。当時、東京の本所業平橋(現在の墨田区)に暮らしていた吉田さんは、この空襲で両親と生後3カ月の妹を亡くし、3歳にして戦争孤児となりました。戦況の悪化を受けて、父親は疎開を決意していました。空襲前日の3月9日、吉田さんは荷造りの邪魔にならないよう、近くの叔母の家に預けられます。しかし、その数時間後には東京は火の海と化し、吉田さんは叔母に守られてなんとか逃れることができましたが、家族との永遠の別れとなりました。

孤児としての日々:冷酷な仕打ち

空襲の記憶はほとんどないという吉田さんですが、その後は親戚宅を転々としました。6歳になり小学校入学を控えた頃、新潟県に住む伯母(父親の姉)の家に引き取られます。しかし、そこから吉田さんの「地獄の日々」が始まったのです。初対面の伯母からいきなり浴びせられた言葉は、「空襲でお前も親と一緒に死んでくれれば、お前を育てないですんだのに」という冷酷なものでした。両親の顔をはっきりと覚えていなかった吉田さんは、「いつかきっと迎えに来てくれる」と信じ、つらい環境にも耐えていましたが、この言葉で家族の死という現実を突きつけられました。「もうショックで、悲しくて、よく泣きました」と当時を振り返ります。

伯母の家で吉田さんは「お手伝い」として扱われました。井戸からの水くみ、食事の準備と後片付け、掃除など、幼い体に重い労働が課せられました。少しでも手間取ると、伯母とその娘に容赦なく頭や顔を叩かれる毎日。食事は仏壇の冷たいご飯に、おかずは前日の残り物という粗末なものでした。

戦争の記憶を語り継ぐ意味

吉田由美子さんの壮絶な幼少期の体験は、戦争がいかに個人の人生を破壊し、深い心の傷を残すかを物語っています。戦後80年を迎え、戦争の記憶が薄れる中で、彼女のような戦争孤児たちの声は、私たちに平和の重要性と、二度と同じ過ちを繰り返さないことの重みを強く訴えかけています。彼らの証言こそが、未来へと繋ぐべき貴重な歴史の教訓なのです。

参考文献: