桑原征平氏(81歳)が語る戦争の真実と、母の愛に支えられた壮絶な家族史

戦後80年を迎えようとする今、私たちは改めて戦争が残した深い傷跡と、それが世代を超えて与える影響について深く考える機会を得ています。関西テレビの名物アナウンサーとして知られ、現在81歳にしてなおラジオパーソナリティとして活躍する桑原征平氏は、自身の壮絶な家族史を通じて、その真実を私たちに語り継ぐ必要性を訴えます。彼の父親が従軍した1938年からの一年間、そして戦後に豹変した父の姿は、母と息子たちに計り知れない苦難をもたらしました。これは単なる個人の物語ではなく、戦争という巨大な力が、いかに人々の心と家族のあり方を歪めたかを示す、生々しい証言です。

81歳でラジオパーソナリティとして活躍する桑原征平氏。マイクの前で力強く語る姿。81歳でラジオパーソナリティとして活躍する桑原征平氏。マイクの前で力強く語る姿。

「水泳三兄弟」を支えた母の献身と夢

献身的に家族を支え続けた母は、桑原氏の人生において最も大きな影響を与えた人物でした。地元の高校を卒業した桑原氏は、1963年、2人の兄と同じ東京の成城大学への進学を決めます。当時、成城大学の入学金は30万円と高額でしたが、母は「お母ちゃんがんばる」と、その夢を応援してくれたと言います。父には「成城の入学金は5万円」と偽ってまで、学費を工面した母の苦労は並々ならぬものでした。桑原氏と次兄の在学期間が重なった1年間は、取引先に頭を下げ、支払いを待ってもらうこともあったと後に聞かされたそうです。

母が息子たちに水泳を習わせた背景には、彼女自身の幼少期の夢がありました。体にハンディがあったため、泳ぐことを親に禁じられていた母は、その叶わぬ夢を息子たち、特に“水泳三兄弟”と呼ばれた彼らに託したのです。その期待に応えるかのように、桑原兄弟は水泳の才能を開花させます。征平氏自身も中学時代、男子200メートルバタフライの京都府中学生新記録を5年間保持し続けるなど、輝かしい実績を残しました。

東京五輪出場を果たした次兄と、父からの「行ったら殺すぞ!」

家族の喜びと同時に、父の暴君ぶりは増していくばかりでした。1964年、桑原氏が二十歳の頃、次兄は東京五輪に水球の日本代表選手として出場するという快挙を成し遂げます。しかし、父は「水球みたいなカネにもならんスポーツさせやがって!」と激怒し、またしても母を責め立てました。親戚一同が次兄の応援のためにオリンピック会場へ駆けつけたにもかかわらず、母だけは会場へ行くことが許されませんでした。「お前行ったら殺すぞ。離婚するぞ!」という父の脅しに、母はいつものように「戦争に行く前のお父ちゃんは優しかったから」と語り、耐え忍んだのです。

そんな中でも、母が唯一、夫の目を盗んで出かけたのが、京都府主催で開催された「オリンピック選手の母をたたえる会」でした。一張羅の着物をまとい、表彰状と記念品をもらって帰ってきた母の姿は、とても嬉しそうだったと桑原氏は振り返ります。「人生最高の日やったと思います」と語るその表彰状は、母にとって何よりも大切な宝物となり、彼女が亡くなった際には棺に納められたと伝えられています。

運命を変えた「関西テレビアナウンサー募集」の求人

母の献身的な支えのおかげで、桑原氏は東京での大学生活を謳歌し、卒業後は京都に戻り、大阪の酒問屋でビールの営業に奮闘しながら、実業団で水泳を続けました。この頃、大学時代に知り合った秀子さんと結婚し、堅実な人生を歩むかに見えました。しかし、彼の人生を180度変える大転機が突然訪れます。

ある日、営業途中に立ち寄った喫茶店で、たまたま手に取ったスポーツ新聞に載っていた「関西テレビアナウンサー募集」の求人広告が彼の目に留まります。妻にも内緒で応募したこの小さな行動が、後の名物アナウンサー、桑原征平氏の誕生へと繋がる運命の扉を開いたのでした。

桑原征平氏の家族史は、戦争が個人の心と家族の絆に深く刻んだ傷痕、そしてその中でも決して屈することなく、家族の夢を支え続けた母の強靭な精神を鮮明に描き出しています。彼が今、「戦後80年」という節目に、改めて戦争の真実を語り継ぐことを使命としているのは、自らの経験を通じて、その重要性を深く認識しているからに他なりません。彼の「しゃべり力」は、単なる話術に留まらず、自身の生きた証と、後世に伝えたい強いメッセージに裏打ちされています。


参考文献: