「女性活躍」と「母親のしんどさ」の深層:ケアの倫理が示す現代の課題

近年、イスラエルの社会学者オルナ・ドーナトによる著書『母親になって後悔してる』が日本でベストセラーとなり、「母のしんどさ」というテーマが社会的に注目を集めています。NHKの「クローズアップ現代」でも特集が組まれるなど、母親になったことで経験する不利益、抑圧、生きづらさ、葛藤の存在が広く認識される契機となりました。しかし、なぜ現代において、このような形で「母親の生きづらさ」が語られるのか、あるいは未だに語られ続けるのか。津田塾大学の専任講師である元橋利恵氏は、「ケアの倫理」からその背景を読み解き、「ケアする人のフェミニズム」の構想を提唱しています。

なぜ「母のしんどさ」は深刻化するのか:自己責任化する母性の実態

日本政府が2015年に女性活躍推進法を策定して以来、企業では「女性活躍」が盛んに謳われ、働く女性の数は増加傾向にあります。2020年には女性の就業率は7割を超え、25歳から44歳の子育て世代の約8割の女性が仕事を持つようになりました。共働きやワーキングマザーも珍しくなくなり、従来の「夫が仕事、妻は家庭」という性別分業は薄れたかのように見えます。

キャリアと家庭の両立に悩む現代女性の横顔キャリアと家庭の両立に悩む現代女性の横顔

「女性活躍」の裏側:増える共働き、残る性別役割分業

しかし、実態はより複雑化していると指摘されています。女性の労働力は増加していますが、その半数以上は非正規雇用です。政策として推進されてきた育児休業制度も、圧倒的に正社員が中心となっています(注5)。厚生労働省のデータによると、有配偶者世帯では共働きであっても、家事時間は女性(妻)に大きく偏ったままであることが示されています(注6)。これは、不安定な雇用に従事しながらも、依然として家事育児という無償労働の多くを担っているのが、この国の多くの有配偶女性の姿であることを意味します。

新自由主義的母性という重圧:労働力と少子化対策の二重期待

政治学者の三浦まり氏は、国家が女性を労働力として見込み「活用」する一方で、少子化対策(同時に経済対策でもある)として母になることをも期待し働きかける、昨今の状況を「新自由主義的母性」と呼んでいます(注4)。女性は社会で「活躍」することを求められながらも、同時に家庭での「母」としての役割、特に子育ての責任を強く期待されるという、二重の重圧に晒されているのです。

「インテンシブ・マザリング」の罠:完璧な「ワーママ」像の強制

さらに、北村文氏は、消費社会と新自由主義のなかで母親たちが「インテンシブ・マザリング」(Hays、1998)へと向かわざるをえない実態を明らかにしています(注8)。北村氏によると、2010年代から2020年代にかけての女性向け雑誌における「ワーキングマザー」「ワーママ」という表象からは、現代の母親たちに家事と育児の責任をますますトータルに背負わせ、しかも就業上の成功と両立することを迫る規範的なメッセージが読み取れます。母親たちは、ただ子を健康に育てるというだけでなく、子により豊かな経験を与え、人生の成功を手に入れられるよう、手を尽くさなければならなくなった状況で、従来よりもさらに重責を背負い、思考し、忙しさのなかで駆り立てられていると指摘されています。このような状況は、母親の役割が苛烈に「自己責任化」されている現代の姿を映し出しています。

結論

「女性活躍」が推進される現代社会において、「母親のしんどさ」は依然として、あるいはより複雑な形で深刻化していることが明らかになりました。女性は、労働力としての期待と同時に、家事育児の無償労働、さらには「インテンシブ・マザリング」という形で子育ての全責任を背負わされ、「自己責任化」の傾向が強まっています。元橋利恵氏が構想する「ケアする人のフェミニズム」は、こうした多重の負担に直面する母親たちの現状を深く理解し、社会全体でケアの責任を分かち合うことの重要性を示唆しています。この課題に真摯に向き合うことが、真に女性が活躍できる社会、そして誰もが生きやすい社会を築くための第一歩となるでしょう。

参考資料

注1:オルナ・ドーナト著、鹿田昌美翻訳、2022、『母親になって後悔してる』新潮社
注2:髙橋歩唯・依田真由美、2024、『母親になって後悔してる、といえたのなら』新潮社
注3:男女共同参画局「男女共同参画白書 令和4年版」https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/zuhyo/zuhyo02-02.html
注4:三浦まり、2015、「新自由主義的母性(『女性の活躍』政策の矛盾」『ジェンダー研究』責任化する母性」という言葉で現代の状況を表現した(18)pp. 53‒68.)
注5:永瀬伸子、2024、『日本の女性のキャリア形成と家族雇用慣行・賃金格差・出産子育て』勁草書房
注6:厚生労働省「平成29年版 労働経済の分析-イノベーションの促進とワーク・ライフ・バランスの実現に向けた課題-」https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/17/backdata/3-2-13.html
注7:Hays, Sharon (1998)The Cultural Contradictions of Motherhood, Yale University Press.
注8:北村文、2025、「現代日本社会におけるインテンシヴ/トータル/ネオリベラルな母の表象──「ワーママ時短術」から「マミーテック」へ」(『ジェンダー研究』(27)pp. 67-90.)