孫基禎氏の金メダル、89年越しの「国籍問題」:息子が語る日韓関係への願い

「父のメダルの国籍は、まだ日本のままです。私が生きている間に正すことはできるでしょうか」――。白髪の老人の眼差しには、深く秘めた願いが揺れていた。それは、1936年ベルリンオリンピック(五輪)マラソンで金メダルを獲得した“マラソンの英雄”孫基禎(ソン・ギジョン)選手(1912~2002)の息子、ソン・ジョンインさん(82)の切実な訴えだ。横浜の自宅で語られたのは、父の栄光を巡る89年越しの悲願であり、日韓関係の複雑な歴史を映し出す物語だった。ソンさんは「恨みも憎しみもありません。ただ一つ、日本オリンピック委員会(JOC)が父の国籍を韓国に戻すことが私の最後の夢です」と静かに語った。

ベルリン五輪マラソン優勝後、日章旗を月桂樹で隠す孫基禎選手ベルリン五輪マラソン優勝後、日章旗を月桂樹で隠す孫基禎選手

ベルリン五輪から89年:金メダルの「国籍」に残る問い

孫基禎選手がベルリン五輪マラソンで2時間29分19秒の記録を打ち立て、金メダルを手にしてから89年が経過した。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)の公式記録では、彼の国籍は未だに「日本」のままだ。IOCは2011年に公式サイトで日本名「孫基禎(Son Kitei)」に加え、韓国名「孫基禎」という説明を追記したが、正式な国籍表記の変更には至っていない。金メダルを獲得したにもかかわらず、胸に付けられた日章旗を悲しみ、月桂樹の若木で隠さざるを得なかった「悲しき英雄」の物語は、現在もその続きが語られている。

ソン氏によると、父・孫基禎は国籍表記に関して公式な発言は避けていたという。しかし、親しい知人には「日本が自ら返してくれることを願うだけだ」と漏らしていたという。朝鮮人であった孫基禎選手は、日本政府から一度も表彰を受けることはなかった。この事実は、当時の日本の植民地支配下の朝鮮半島出身アスリートが直面した厳しい現実を物語っている。

「悲しき英雄」の知られざる側面:家族と平和への願い

ソン・ジョンインさんは、ガラスケースの中から重厚な青銅の兜を慎重に取り出した。これは、ギリシャの新聞社がベルリン五輪マラソン優勝者に贈ろうとした古代の兜の模型(レプリカ)だ。原本は優勝50年後の1986年に孫基禎氏に渡され、1994年には韓国国家に寄贈され、現在は国立中央博物館に所蔵されている(宝物第904号)。孫基禎氏は「感謝する方々に渡すのだ」と述べ、この模型を1000個も制作したという。ソンさんが所持する兜は第58号で、自宅玄関の太極旗の傍らに置かれている。ソンさんは大切そうにハンカチでガラスケースを何度も拭いた。

1943年生まれのソンさんは、父がマラソンに専念していた間、新義州(シンウィジュ)の伯父宅で育った。父と再会したのは、朝鮮戦争勃発後の1951年「1・4後退」の時だったという。孫基禎氏は新義州にいた息子と娘を連れて避難した。ソンさんは、父と共に過ごしたソウル安岩洞での記憶を鮮明に覚えている。マラソンの後輩を育成していた孫基禎氏の自宅は、まるで合宿所のようだった。「選手たちは毎日家で食べ寝て、父は彼らのためのお金集めに奔走していました」とソンさんは語る。

韓日国交正常化後の1968年、ソンさんは父の影響を受け「1号留学生」として日本に渡った。父からは「私は日本に行かざるを得なかったが、お前は韓国人として(自ら)日本に行き、新しい時代の新しい韓日関係、人間関係を築きなさい」と言われたという。ソンさんは父が学んだ明治大学に留学した。孫基禎氏が明治大学に進学したのは、朝鮮総督府から「走らないこと」を条件に日本行きを命じられたためだったという。その生涯を通じて、父は「箱根駅伝で走りたい」「走れば必ず勝てる」と語っていたが、その願いが叶うことはなかった。実際、孫基禎氏は日本留学の3年間、毎晩のように黒い服を着て公園を走り続け、いつか大会に出られる日を夢見ていたという。

「孫基禎の息子」として生きてきたソンさんの人生も決して平坦ではなかった。父が経営していた会社は倒産し、政治に巻き込まれることを嫌ったため、自然と敵も多かったという。留学後も日本に残ったソンさんは、大学街で焼肉店を開き生計を立てた。引っ越しは10回以上に及び、裕福な生活ではなかった。ソンさんは「孫基禎の息子として、言いたいことを自由に言えなかった。世間では『反日』か『親日』かと言われ、何事も慎重にならざるを得なかった」と胸の内を明かした。

世代を超えて語り継ぐ:日韓の橋渡しとなった教授の活動

ソン・ジョンインさんの「言いたいこと」を何十年にもわたり代弁してきたのが、日本人の明治大学名誉教授、寺島善一氏(80)だ。2019年に『評伝 孫基禎』を著した寺島氏は、明治大学での講演や様々な活動を通じて、日本で孫基禎氏の存在と功績を広く伝えている。

寺島氏が孫基禎氏と初めて出会ったのは1983年。日本の「スポーツと平和を考える会」に参加した孫基禎氏が「スポーツマンは平和問題に関心を持つべきだ」と語ったのがきっかけだった。寺島氏は「差別を受けた記憶から、日本に強い敵意を抱くこともできたはずだが、孫基禎氏は違った。平和のために日韓が連帯すべきだと言った。強い人だった」と、その人物像を評する。

寺島氏は、ある一枚の写真を見せてくれた。朝鮮戦争の最中であった1951年、ボストンマラソンで優勝した日本人選手・田中茂樹に、孫基禎氏が「アジアの優勝」と送った祝電だった。寺島氏は「孫基禎氏が亡くなった時、日本は弔問どころか花輪も弔電も送らなかった」とし、「日本のマラソン金メダリストと言いながら、孫基禎氏を無視したのと同じことです」と日本の対応を指摘した。

未来へ繋ぐ孫基禎氏の精神:日韓国交正常化60周年を前に

寺島氏は、孫基禎氏が常に時代の一歩先を行く人物であったと付け加える。「差別や苦しみの中でも、平和と民主主義を語り続けた孫基禎氏は、強い信念を持っていた」。そして、今年の重要性を強調した。「今年は日韓国交正常化60周年、そして光復80年にあたります。両国の若者たちが孫基禎氏の平和精神に思いを致してほしいと願っています」。

孫基禎氏の金メダルを巡る国籍問題は、単なる歴史の一コマではない。それは、過去の困難を乗り越え、より良い未来の日韓関係を築くための対話と理解の重要性を私たちに問いかけている。ソン・ジョンインさんの長年の願いは、父の栄光が真の意味で称えられ、その精神が両国間の橋渡しとなることだ。孫基禎氏が遺した平和へのメッセージは、今こそ、両国の若者たちによって受け継がれるべき貴重な遺産と言えるだろう。