韓国の民主化運動の中心地として知られる光州広域市が、市内の公共図書館に所蔵されている「歴史わい曲図書」7種27冊の廃棄を決定したことが明らかになりました。この動きは、過去の歴史認識、特に建国期や朝鮮戦争に関する解釈を巡る韓国社会の深い対立を改めて浮き彫りにしています。公的な教育機関である図書館から特定の書籍を排除する今回の措置は、表現の自由と歴史の正しい継承という二つの重要な価値観の間で、新たな論争を巻き起こしています。本記事では、光州市が廃棄対象とした書籍の内容とその理由、光州市の対応、そして今回の決定がもたらす広範な影響と、それに対する学術界からの批判について詳しく解説します。
「歴史わい曲」とされた具体的な書籍とその理由
光州広域市が廃棄対象とした書籍には、長年にわたり韓国内で大きな議論を呼んできた複数の作品が含まれています。
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『お母さんが聞かせる李承晩建国大統領のお話』
2020年に出版されたこの書籍は、1948年の「麗水・順天事件」における韓国軍による鎮圧を「がん患者治療に比喩した」として問題視されました。同書は、事件について「多くの市民の犠牲が出たとしても、反乱勢力を鎮圧していなければ大韓民国は生存できなかった。がん患者治療のため正常な細胞も死に、患者が苦しむことがわかっていても、放射線治療をするしかないのと同じ理由」と記述しています。光州市の関係者は、この比喩が多数の市民犠牲者を出した事件を矮小化し、鎮圧行為を正当化することで事実をわい曲していると強く指摘しています。 -
『おじいちゃんが聞かせる6・25戦争の話』
この書籍は、2025年7月10日に国会教育委員会で開催された「リバクスクール事件」の聴聞会で問題になったことで廃棄対象となりました。聴聞会で与党・共に民主党の鄭乙浩(チョン・ウルホ)議員は、同書を「虚偽まみれの歴史わい曲書籍」と厳しく批判しました。リバクスクール事件とは、歴史教育団体「リバクスクール」(「李承晩、朴正煕(パク・チョンヒ)スクール」の略称)が、前回の大統領選挙の際、インターネットを通じた世論形成を目的にコメントチームを立ち上げたとする疑惑です。この疑惑を受け、リバクスクールが李承晩元大統領や朴正煕元大統領の功績を過度に称揚し、批判的な側面を無視または軽視する「わい曲された歴史観」に基づいた書籍を用いて教育しているとの批判が相次ぎました。 -
ニューライト歴史観の書籍
今回廃棄される書籍の中には、李栄薫(イ・ヨンフン)元ソウル大学教授の著書である『反日種族主義』や『反日種族主義との闘争』といった、いわゆる「ニューライト歴史観」に基づいた書籍も含まれています。これらの書籍は、主に日本統治時代の評価、慰安婦問題、そして韓国の経済発展の歴史などについて、従来の韓国における「民族主義的歴史観」とは異なる、より実証的・批判的な視点を示しています。これにより、韓国内では「親日的」あるいは「歴史修正主義的」と見なされ、長らく大きな論争の的となってきました。
光州市の対応と今後の計画
光州広域市は、今回の廃棄決定に先立ち、まずは利用者が当該書籍を借りられないよう、図書検索システムからヒットしないように対応しました。これにより、事実上の閲覧制限措置が取られています。今後は、「図書館運営委員会」などの正式な手続きを経て、法的に廃棄を実行する計画です。
リバクスクール事件の波紋を受け、光州市は歴史わい曲問題の原因となった書籍の有無を確認するため、今月11日から13日にかけて市内の375カ所にある公共図書館の所蔵書籍について全数調査を実施しました。姜琪正(カン・ギジョン)市長は、「未来の世代に正しい民主主義の価値観を形成させ、虚偽やわい曲のない図書を提供するため、全面的な点検が必要だ」との強い考えを示しています。この発言は、光州市が歴史教育における正確性を極めて重視している姿勢を明確に示しています。
光州市教育庁もまた、前日に市内の15ある学校図書館で、光州広域市が指定したものと同じ7種の書籍の閲覧を制限しました。イ・ジョンソン教育監は11日、「歴史わい曲図書が学校に置かれていたことを深く謝罪する」と述べた上で、「今回の事案を非常に深刻に受け止め、光復80周年を迎える今年を『歴史わい曲剔抉(てっけつ)元年』とし、正しい歴史観確立と歴史を正す教育をさらに強化したい」との強い意志を表明しました。これは、光州市が歴史の「正義」を追求する象徴的な取り組みとして位置づけていることを示唆しています。
光州広域市は、今後の再発防止策として、歴史の専門家を含む「図書館資料選定委員会」を立ち上げ、書籍購入手続きの専門性と信頼性を強化する方針です。これにより、今後図書館に所蔵される書籍の選定基準をより厳格化し、同様の論争が再発することを防ぐ狙いがあります。
学術界からの批判と論争の行方
しかし、光州市のこうした動きに対しては、韓国内の学術界から批判の声も上がっています。成均館大学社会学科の具廷禹(ク・ジョンウ)教授は、「図書の内容に関係なく、地方自治体が任意に公共図書館の書籍を廃棄するのは問題がある」と強く指摘しました。教授はさらに、「司法の判断が出たわけでもなく、思想と表現の自由を過度に制限している」と述べ、今回の措置が自由な議論の場を損なう可能性を強く懸念しています。
韓国光州の公共図書館で廃棄される「歴史わい曲図書」を表すイラスト
公共図書館は、多様な情報や思想に市民が自由にアクセスできる開かれた場であることが重要とされています。そのため、特定の視点を持つ書籍であっても、それが法的に問題ない限り、安易に排除することは「検閲」と見なされ、民主主義社会における表現の自由の原則に反するという意見が根強く存在します。今回の廃棄決定は、学術的議論や批判的思考を促すよりも、むしろ特定の歴史観を一方的に押し付ける結果となり、出版の自由や研究の多様性にも負の影響を与える可能性が指摘されています。
この廃棄決定は、歴史認識の多様性をどこまで許容するか、また公的機関が特定の歴史観に基づいて書籍を排除することが適切かという、より根源的な問いを提起しています。特に、民主主義社会における表現の自由と、国家の歴史教育のあり方とのバランスは、今後も韓国社会で活発な議論の対象となるでしょう。
結び
光州広域市による「歴史わい曲図書」廃棄の決定は、単なる書籍の撤去に留まらず、韓国における歴史認識、教育、そして表現の自由を巡る長年の論争を再燃させるものです。この問題は、未来世代への「正しい歴史観」の継承を目指す自治体の強い意図と、思想の多様性を尊重し、開かれた議論の場を守ろうとする学術界の立場との間で、依然として深い溝があることを示しています。今後、この問題が韓国社会にどのような波紋を広げ、図書館の役割や歴史教育の方向性にどのような影響を与えるのか、引き続き注視が必要です。本件は、国家と個人の自由、歴史の解釈、そして公共の役割という、民主主義社会にとって普遍的な課題を提示しています。
参考文献
- 朝鮮日報日本語版, 「光州市内の公共図書館から「歴史わい曲図書」7種を廃棄へ」, Yahoo!ニュース, 2025年8月15日.
https://news.yahoo.co.jp/articles/14a1d12ace3515dad4552c33fb9982d2e47bc7c3