日本では、国民全員が何らかの公的医療保険制度に加入する「国民皆保険」の原則が採用されています。この制度により、私たちは突然の病気や怪我で高額な治療費が必要になった際も、医療費の自己負担が原則3割に抑えられ、生活が大きく不安定になることを防いでいます。しかし、保険料が給与から天引きされることが多いためか、その基本的な概念や歴史的背景が十分に理解されていない現状も見受けられます。近年では「手取りを増やす」というスローガンの下、保険料や税金といった国民負担そのものに関心が集中しがちです。本稿では、日本の医療保険制度の全体像を概観しつつ、国民皆保険の根幹を支える「国民健康保険(国保)」の知られざる歴史を紐解くことで、この公的医療保険制度が持つ本質的な意義を深く考察します。
埼玉県越谷市役所前に立つ「相扶共済」の石碑。国民健康保険制度の相互扶助の精神を表す。
職業・年齢で細分化された日本の医療保険制度の全体像
まず、現代日本の複雑な医療保険制度の全体像を見てみましょう。保険制度を運営する「保険者」は、以下のように細かく分類されています。
- 被用者保険: 主に企業などに雇用される人々が加入する保険で、以下の種類があります。
- 健康保険組合: 主に大企業の従業員とその家族を対象とします。
- 全国健康保険協会(協会けんぽ): 中小企業の従業員とその家族をカバーします。
- 共済組合: 公務員とその家族などが加入します。
- 国民健康保険(国保): 自営業者、農林水産業従事者、企業の退職者などで被用者保険に加入していない人々が対象です。
- 後期高齢者医療制度: 75歳以上の高齢者などが加入する制度です。
これほどまでに制度が細分化されている背景には、日本の医療保険制度が歴史的に段階を経て発展してきた経緯があります。
被用者保険の成立と「国民皆保険」への道
日本の医療保険制度の整備は、まず被用者保険から始まりました。戦前の1922年に「健康保険法」が制定され、当時の基幹産業であった紡績業で過酷な労働環境に置かれ、結核などの病に苦しむ「女工」と呼ばれる若い女性労働者の健康問題が、主な念頭にありました。この法律の制定を通じて、労働者の健康保持が図られたのです。その後、昭和戦前期にはホワイトカラーの勤め人やその家族にも対象が広がり、被用者保険の原型が固まっていきました。
当時、国民の約半数を占めていた農民は当初、医療保険の対象外でした。しかし、1938年には国民健康保険(国保)が発足し、これにより農民も公的医療保険の「網」に組み込まれることになります。第二次世界大戦の敗戦によって医療保険制度は一時的な危機に瀕しましたが、その後少しずつ再建が進められ、1961年には「国民皆保険」が完成し、全国民が何らかの公的医療保険に加入する体制が確立されました。
高齢化と制度の複雑化:現代の財政調整
国民皆保険の完成後、高度経済成長を経て、少子高齢化の進展とともに医療費は増加の一途を辿ります。特に、国保は所得の低い層や高齢者の割合が高いため、その財政負担が重くなる傾向がありました。このため、1980年代からは、比較的に所得が高い層が多い被用者保険側からの負担を増やし、国保の財政を支援する「財政調整」が実施されるようになりました。
現在の仕組みは2008年から導入されており、65歳から74歳までの医療費については、被用者保険からの財政調整によって国保がその大部分をカバーする形となっています。さらに、75歳以上の後期高齢者の医療費は後期高齢者医療制度で独立して管理され、これは全世代からの保険料と国・地方自治体からの税金によって支え合う仕組みが整備されました。このような歴史的経緯と政策調整の結果、今日の日本の医療保険制度における負担と給付の関係は非常に複雑なものとなっています。
結び:医療保険制度の理解とその意義
日本の医療保険制度は、被用者保険の誕生から国民皆保険の実現、そして現代の高齢化社会における財政調整に至るまで、その時代ごとの社会状況やニーズに応えながら発展してきました。この複雑な仕組みは、単なる保険料の徴収と医療費の給付という側面だけでなく、国民の健康と生活を支える相互扶助の精神と、社会全体の連帯によって成り立っています。私たちがこの制度の本質を深く理解することは、自身の健康を守るだけでなく、持続可能な社会保障制度を未来へ繋ぐ上で不可欠だと言えるでしょう。