伝説の「トラック野郎」誕生秘話:東映元宣伝部長が明かす“寅さん”超えへの挑戦

1975年8月に公開されるや否や、観客の度肝を抜くほどの驚異的な大ヒットを記録した一本の映画。それが、今や“国宝級”とまで称されるエンターテインメント大作「トラック野郎」シリーズです。菅原文太演じる破天荒な「一番星桃次郎」と、愛川欽也扮する愛すべき「やもめのジョナサン」が、ド派手なデコトラを駆り、日本全国で繰り広げるけんか、恋、そして人助けの物語は、多くの日本人の心を掴みました。なぜこの娯楽映画の金字塔は誕生し、瞬く間に社会現象となったのか。その知られざる舞台裏を、当時の東映宣伝部長が鮮やかに振り返ります。

映画「トラック野郎 突撃一番星」に出演する菅原文太、愛川欽也、原田美枝子、せんだみつお。昭和の邦画を象徴するスターたちが並ぶ。映画「トラック野郎 突撃一番星」に出演する菅原文太、愛川欽也、原田美枝子、せんだみつお。昭和の邦画を象徴するスターたちが並ぶ。

ドル箱シリーズ誕生のきっかけ

「トラック野郎」が東映のドル箱シリーズへと成長する発端は、意外なところからでした。当時宣伝を担当していた元東映宣伝部長の福永邦昭氏(85)は、愛川欽也氏がパーソナリティを務めていた深夜ラジオ番組「パックインミュージック」との交流を語ります。福永氏は映画宣伝のために菅原文太ら俳優を連れてキンキン(愛川欽也氏の愛称)の番組に遊びに行く間柄でした。ある日、キンキンに番組の打ち上げに誘われた際、彼から「深夜ラジオを聴いているトラック運転手から様々な手紙が届く。彼らの話を映画にしたら面白いのではないか」というアイデアが語られたのです。この提案に福永氏は運命的なインスピレーションを感じ、すぐさま行動を起こします。

菅原文太、新境地への模索

福永氏が菅原文太氏の元へ急行した時、文太氏は大腸ポリープの手術のため虎の門病院に入院中でした。しかし、福永氏は以前から文太氏が「そろそろヤクザ映画も限界かな」「方向転換が必要かもしれない」と漏らしていたのを耳にしていました。1970年代半ば、文太氏は深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズで実録ヤクザ路線を牽引する東映の大スターでしたが、その路線にも翳りが見え始めていたのです。そんな折に「トラック野郎」の構想を聞いた文太氏は、自身の新たな表現の場を見出したかのようにすぐに乗り気になり、病室はスタッフたちの打ち合わせ場所と化しました。

国民的映画「寅さん」との対抗意識

福永氏にとって、「トラック野郎」の構想は、ある国民的シリーズへの明確な対抗策でした。彼は「キンキンから構想を聞いたとき、寅さんに対抗するには、これだと思ったんですよ」と振り返ります。“寅さん”とは、もちろん松竹が誇る「男はつらいよ」シリーズのことです。夏と正月に公開されるこの作品は、観客動員数が200万人を超えることも珍しくないほどの“一人勝ち”状態であり、当時の邦画界を席巻していました。「だから名前もあっちは寅次郎、こっちは桃次郎。『男はつらいよ』は、かなり意識していました」と福永氏が語るように、東映は「トラック野郎」を、まさに「男はつらいよ」に匹敵する、あるいはそれを超える国民的シリーズとして確立しようと目論んでいたのです。

「トラック野郎」シリーズは、1975年から79年にかけて計10作が製作され、正月と夏の日本映画界を華やかに彩り、期待通りの大成功を収めました。単なる娯楽映画に留まらず、当時の社会情勢や人々の心情を映し出し、今なお多くのファンに愛される伝説的な作品として、その名を日本映画史に刻み続けています。


参考:Yahoo!ニュース