ただの「仲良し兄弟」ではなかった…豊臣秀吉の弟として徳川家康と並び立った秀長の”類まれなる才覚”


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 ※本稿は、菅義偉・柴裕之・中村修也・藤田達生・黒田基樹・萩原さちこ『豊臣秀長 戦国最強のナンバー2のすべて』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。

■官位は豊臣政権の「ナンバー3」

 秀長は豊臣一門大名として畿内南部に展開した領国の統治をおこなう一方で、羽柴家一門衆の筆頭として執政を務めた。そうした秀長の地位は、天下人の従一位関白太政大臣(天正13年〔1585〕7月に従一位関白となり、翌14年11月に太政大臣に任官)の秀吉を主宰者とした豊臣政権内部の身分序列に用いられた官位の面においても、それにふさわしい地位にあった。そこで、秀長の地位を確認するため、彼の得た官位の変遷についてみていこう。

 秀長は、天正11年(1583)3月以降、織田家内部の対立のなかで受領名「美濃守」を名乗るが(「長浜城歴史博物館所蔵文書」)、これは朝廷から正式に官位を得たものではない。秀長が初めて朝廷から官位を得たのは、天正13年10月7日である。秀吉に従って参内のうえ、従三位参議兼近衛中将となっている(『兼見卿記』)。

 この時に豊臣政権において秀長の上位にいたのは、従一位関白(この時は、まだ太政大臣に任官はしていない)にあった主宰者の秀吉と、正三位権大納言にあり、かつての主君だった織田信雄である。したがって、従三位参議兼近衛中将は、秀吉の信頼する“弟”で、羽柴家一門衆の筆頭の秀長にふさわしい官位であった。

■危機に直面した家康は秀吉の臣下に

 一方、その頃、小牧・長久手合戦で信雄を支持し秀吉と対立した徳川家康は、秀吉が天下人の立場を確固とし、情勢が優勢になるにつれ、自身に従う信濃国衆(くにしゅう)の離反が相次ぐなど領国内が動揺をみせだし、存亡危機の事態に追い込まれていた。

 家康はこの事態を解決するために、天正14年(1586)1月に織田信雄の説得を受けて秀吉に臣従することを決め、翌2月に秀吉から認められた。ただし、秀吉への臣従に際して、家康は無条件で応じたのではなく、臣従後の立場と領国存立の保証を求めた。



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