1948年に制定された少年法は、少年事件の加害者を匿名で報じることを原則としている。しかし、歴史を振り返ると、この原則が適用されず、実名と顔写真が公にされた少年犯罪者が存在した。1960年の浅沼稲次郎社会党党首刺殺事件を起こした山口二矢(おとや)、そして1968年から1969年にかけて連続射殺事件を起こした永山則夫だ。彼らがなぜ現代の「少年A」とは異なる扱いを受けたのか、当時の社会情勢とメディアの役割を紐解きながら検証する。
匿名報道が「非常識」だった時代:山口二矢事件の衝撃
現代では少年事件の匿名報道は常識だが、かつては少年を実名で報じ、顔写真まで掲載する時代があった。その最も有名な事例の一つが、1960年10月に起きた山口二矢による日本社会党委員長・浅沼稲次郎氏刺殺事件である。この事件は、白昼堂々、東京・日比谷公会堂で発生した。当時17歳だった山口二矢は、聴衆が見守る中で熱弁を振るっていた浅沼氏に、刃渡り34センチの脇差しを突き刺した。山口は早生まれで、もし高校に通っていれば3年生の学年だったが、当時の報道や世間は、彼の犯行を単なる少年事件として捉えなかった。
1960年安保闘争時代の政治的テロを象徴するイメージ写真
1960年代の政治的背景:安保闘争と横行するテロ
山口二矢が極右政治団体に入会した経歴を持つ右翼少年であったこともあり、この事件は国粋主義者による政治テロとみなされた。その背景には、1960年安保闘争の真っ只中という時代状況がある。当時の日本社会は政治的な混乱の中にあり、テロリズムが横行していた。同年6月には社会党の衆議院議員がナイフで刺され、その翌月には岸信介首相も短刀で襲われる事件が発生している(いずれも犯人は成人)。山口二矢による浅沼氏刺殺事件は、こうした政治を巡る不穏な騒動の一環であり、政治闘争の極致として位置づけられたのだ。2022年の安倍晋三元首相銃撃事件が参院選の最中に起きたように、山口二矢の事件も、岸内閣総辞職と総選挙を目前に控えた時期に発生した。
報道機関の「常識」を覆した決定的瞬間:ピューリッツァー賞受賞写真
逮捕された山口二矢は、警視庁の取り調べに対し、「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じて殺害した」と供述した。この供述は、事件のテロ的性格を強く裏付けるものだった。事件現場は選挙戦を控えた立会演説会であり、新聞各社の記者やカメラマン、NHKのテレビクルーが取材に集まっていた。毎日新聞のカメラマンは、山口が浅沼氏に短刀を突き刺すまさにその瞬間のシャッターを切ることに成功した。翌日の朝刊には、山口の実名とともにその写真が大きく一面に掲載され、大スクープとして扱われた。この写真は後に、ジャーナリズムのノーベル賞とも称されるピューリッツァー賞を国内で初めて受賞することになる。当時の報道機関は、現行の少年法が既に施行されていたにもかかわらず、一斉に山口の実名と顔写真を報じた。NHKでさえ、実名、顔写真に加え、刺殺の瞬間の映像を放送している。当時の新聞紙面を見る限り、実名報道や写真掲載が問題視された形跡はなく、17歳の山口少年は「一人前の大人」として扱われていた。
現代の「少年A」と過去の「山口二矢」:変わる社会の眼差し
もし山口二矢事件が現代に発生した場合、報道機関の対応は全く異なるだろう。彼の顔写真は当然モザイク処理され、新聞やテレビが実名を公表することはまずない。同時に、山口が「早熟な右翼の思想家」として捉えられることはなく、その凶行は単なる少年の「誇大妄想」や精神的な問題として位置づけられた可能性が高い。社会の価値観や法的な枠組み、そしてメディアの報道倫理が大きく変化した現代において、過去の事件を振り返ることは、少年犯罪報道の歴史とその複雑性を理解する上で極めて重要である。
参考資料
- 川名壮志『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか:不確かな境界』(新潮新書)